鎌倉にある護良親王墓です。

 

 

後醍醐天皇の第三皇子・護良親王の墓。

護良親王は後醍醐天皇の建武の新政で征夷大将軍に任じられますが、この地位を欲していた足利尊氏と対立。鎌倉にいた尊氏の弟足利直義に預けられ、東光寺土牢に幽閉。建武3年(1335年)、北条高時の遺児・時行が一時期鎌倉を占領した中先代の乱の時、直義の命令で殺害されました。護良親王の首は打ち捨てられましたが、付近の理智光寺住職が拾って葬ったとされます。

明治時代、理智光寺跡地に宮内庁によって護良親王墓が整備されました。

 

 

 

後醍醐天皇皇子護良親王墓碑。

護良親王(1308~1335)は南北朝時代の武将。後醍醐天皇の第三皇子。母は民部卿三位。梶井門跡に入り出家。尊雲法親王と号し、法勝寺九重塔(大塔)付近に里坊を構えたことから大塔宮と呼ばれます。天台座主に二度就任。元徳2年(1329年)、二品。元弘元年(1331年)、2度目の討幕計画が発覚した父後醍醐天皇が笠置山へ逃れると、比叡山を降り合流。後醍醐天皇は笠置山で捕らえられ隠岐配流。尊雲法親王は吉野山へ逃れて自ら還俗して護良親王と名乗り、討幕の令旨を発令。幕府軍は護良親王捕獲のため吉野山へ攻め込みますが、村上義光が護良親王の身代わりとなり、逃亡。元弘3年、鎌倉幕府滅亡。後醍醐天皇は都へ戻り建武の新政を開始。護良親王は征夷大将軍を要求、これに任じられ帰京。この座を欲する足利尊氏と対立。建武2年、征夷大将軍剥奪。鎌倉将軍府将軍・成良親王を奉じて鎌倉にいた尊氏の弟足利直義に預けられ、東光寺土牢に幽閉されます。「太平記」は後醍醐天皇寵妃阿野廉子に尊氏が取り入り、後醍醐天皇への謀反を讒言させたとし、「梅松論」では護良親王が後醍醐天皇の命で尊氏を討とうとしたところ尊氏軍が後醍醐天皇の御所を取り囲んだため、天皇は護良親王の独断として知らぬ顔をしたとし、護良親王は「武家よりも君(後醍醐天皇)の恨めしく渡らせ給ふ」と思ったとします。建武3年、北条高時の遺児・時行が鎌倉幕府再興を目指し挙兵(中先代の乱)、鎌倉に迫り、直義は成良親王を奉じて帰京。その際、直義の命を受けた淵辺義博に殺害されました。享年、28歳。

    

 

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護良親王墓;神奈川県鎌倉市二階堂