寺町通広小路上るにある廬山寺陵です。

 

 

慶光天皇(閑院宮典仁親王/歴代天皇には数えられていない)及び妃、東山、光格、孝明天皇の皇子女ら17基の陵墓。

幕末まで廬山寺が管理していましたが、明治以降は宮内庁管轄となり、蘆山寺の築地外に参拝道が設けられています。

 

 

廬山寺陵。

慶光天皇及び妃、東山・仁孝・孝明天皇の妃や皇子女ら17名の陵墓があります。

閑院宮典仁親王(慶光天皇/1733~1794)は閑院宮直仁親王の第二王子。母は家女房の讃岐。安永8年(1779年)、後桃園天皇が22歳で崩、生まれたばかりの欣子内親王のみが残された際、未婚で出家前だった典仁親王の第六王子・祐宮(母は家女房の大江磐代)が欣子内親王の婿として選ばれ、光格天皇として即位。寛政3年(1791年)、光格天皇は実父の典仁親王に太上天皇号を贈ろうとするも、江戸幕府の老中松平定信に阻止される尊号一件が勃発。寛政6年(1794年)、死去。明治17年(1884年)、慶光天皇の号が贈られ、墓は陵として扱われています。

成子内親王(1729~1771)は閑院宮典仁親王妃。中御門天皇の第五皇女。母は久世夏子。籌宮。元文3年(1738年)、内親王宣下。寛延2年(1749年)、21歳で4歳年下の典仁親王と結婚。寛和8年(1771年)、死去。

 

 

鎔宮(1825~1826)は仁孝天皇の第二皇子。母は正親町雅子(新待賢門院)。2歳で夭折。

壽萬宮(1859~1861)は孝明天皇の第三皇女。母は堀河紀子。万延元年(1860年)、公武合体の名のもと、江戸幕府は朝廷に皇妹和宮の14代将軍徳川家茂への降嫁を申し入れます。孝明天皇は、和宮がすでに有栖川宮熾仁親王と婚約していることを理由に難色を示し、代わりに壽萬宮を降嫁させる妥協案を提示。和宮が家茂と同年齢であったのに対し、壽萬宮は幼少であるとして幕府は受け入れず、和宮の降嫁が決まったと言います。3歳で夭折。

 

 

 

廬山寺陵;京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町