宮津にある本庄宗武・宗秀墓です。

 

 

宮津藩16代藩主本庄宗秀と、宮津藩17代藩主本庄宗武の墓。

本庄家は、江戸幕府3代将軍徳川家光の側室で江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母となった玉(桂昌院)を家祖とする家。玉は二条家家侍本庄宗正の娘とされますが実際の出自はもっと低かったとも言われ、西陣織職人の娘、畳屋の娘、八百屋の娘といった話が流布。玉は家光の側室・万(参議六条有純女)の部屋子として江戸城大奥入り。将軍家光の乳母春日局の目に留まり御中臈となって家光の三男・綱吉を産みます。綱吉が館林藩主となると玉の弟本庄宗資は館林藩士に取り立てられ、綱吉が江戸幕府5代将軍になると宗資は足利藩主となって大名に昇進。笠間藩主4万石に転封されました。

宗資の曾孫本庄資昌のときに転封、宮津藩10代藩主となり、以降は幕末まで本庄氏が藩主を勤めます。宮津藩11代藩主・本庄資尹は酒井家からの養子、宮津藩12代藩主・松平資承は大河内家からの養子。

 

 

神宮大宮司兼中教正従四位本庄宗秀之墓。

本庄宗秀(1809~1873)は宮津藩16代藩主。宮津藩14代藩主本庄宗允の子。8歳の時に父が没し、叔父の宗発が15代藩主となります。天保11年(1840年)、宗発の死により藩主就任。安政5年(1858年)、寺社奉行。大老・井伊直弼の下で安政の大獄を実行したことで恨まれ、文久2年(1862年)、京都所司代になるも更迭。同年、譜代最高位の溜詰(江戸城内の大名控室の格)になるも、翌年、3段階下の雁間詰に降格。元治元年(1864年)、老中。慶応2年(1866年)、第二次長州征討に出陣、捕虜にしていた宍戸璣(後の山県半蔵)、小田村伊之助(後の楫取素彦)を私に釈放し独自の和平交渉をしたため幕府から隠居蟄居を命じられ、家督を宗武に譲ります。明治維新後は明治新政府に出仕。明治6年(1873年)、伊勢神宮大宮司。同年、65歳で没。

 

 

子爵本庄宗武之墓。

本庄宗武(1846~1893)は宮津藩17代藩主。宮津藩16代藩主本庄宗秀の五男。慶応2年、父が幕命により隠居蟄居したことで家督を継ぎます。慶応4年、戊辰戦争において宮津藩は山城国男山に布陣中、新政府軍に発砲したため朝敵となります。同1月23日、西園寺公望率いる山陰鎮撫軍に降伏。同2月23日、父宗秀は新政府に謝罪、宗武を隠居させて自分に家督を戻すと訴えるも認められず。明治2年、宮津知藩事。明治4年、廃藩置県により知藩事罷免。明治6年、北海道開拓使となって北海道に渡り農業に従事。明治8年、籠神社宮司。明治17年、子爵。明治21年、日本国教大道社を設立、副社長。明治26年、死去。

 

 

 

本庄宗武・宗秀墓;京都府宮津市万町