大阪にある大坂城です。

 

大阪城

 

大阪は明治以前には大坂と書かれることが多かったようです。

現地は大阪平野に南北12キロにわたって連なる上町台地北端に位置します。上町台地は北へ行くほど高くなっており、かつては淀川や大和川に三方を囲まれた断崖絶壁の上の天然の要塞でした。

延徳元年(1489年)、本願寺8世・蓮如がこの地に拠点の一つ、石山御坊を置きます。天文元年(1532年)、管領細川晴元との戦いで山科本願寺が焼失、本願寺9世・証如は石山御坊に本拠地を移し、石山本願寺と呼ばれます。石山本願寺は山科本願寺同様、寺内町を取り囲んで塀と濠が築かれ、本格的城郭建築による要塞が築かれました。本願寺10世・教如は織田信長と11年に渡り交戦。天正8年(1580年)、正親町天皇の仲裁により和睦、この地を明け渡します。天正10年、本能寺の変により織田信長が討死、山崎の戦いを制して天下人に名乗りを上げた羽柴秀吉は、翌年より石山本願寺跡に天下に号令するにふさわしい巨大な城の建造を開始。大坂城は秀吉の生前、拡張し続けました。

天正13年、秀吉は関白となって翌年、豊臣姓を受けると京に聚楽第を築いて関白屋敷とします。天正19年、関白を譲り太閤となってからは伏見城を築いて住みました。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が伏見城で没すると、遺言により7歳の豊臣秀頼は大坂城に入り、以降、滅亡まで居城となりました。

慶長15年、大坂夏の陣により豊臣秀頼と淀殿が大坂城で自刃、天守などが焼失。同年、松平忠明(家康孫)が大坂藩主として大坂城に入るも、元和4年(1619年)、忠明は転封となり、以降は徳川将軍家の天領となります。元和6年、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の命により、豊臣期大坂城は破壊されて石垣は盛り土をして地中に埋められ、地上に新たな徳川将軍家の大坂城を築かれます。徳川期大坂城は3代将軍徳川家光のときに完成、家光が入城して威厳を示します。以降、14代将軍家茂まで将軍の入城はなく、普段は大坂城代を置かれました。寛文5年(1666年)、徳川期天守が落雷により焼失、以降、再建されず。慶応3年(1867年)、15代将軍慶喜は二条城で大政奉還すると大坂城に退去。翌年、鳥羽伏見の戦いが勃発すると船で江戸へ帰還。大坂城は出火、主要な建物が焼失しました。

廃城後の明治3年、大坂城三の丸跡に大阪砲兵工廠が建造されます。昭和3年、本丸跡が大阪城公園となり、天守復元。戦後は大阪砲兵工廠跡地がGHQに収公され、一部が民間に払い下げられます。GHQ撤収後、残った大坂城跡地は大阪城公園に加えられました。

国の特別史跡。日本100名城54番。

 

大阪城

 

現在見る景観は江戸時代、徳川家によって建造された大坂城。

 

大阪城

 

千貫櫓。

元和6年の建造物で、重要文化財。

現存するのは徳川期のものですが、それに先行する石山本願寺時代から場所を変えていないといいます。名前の由来は石山本願寺を攻めた織田信長が、あの櫓を落とした者は千貫の価値があるといったことによるといいます。

 

大阪城

 

多聞櫓。

嘉永元年(1848年)の建造物で、重要文化財。

 

大阪城

 

大手門。

寛永5年(1628年)の建造物で、重要文化財。

 

大阪城

 

天守。

徳川期天守台の上に昭和6年、鉄筋コンクリートで建てられたもの。

初層から4層目までは徳川期天守を模した白漆、5層目は豊臣期天守を模した黒漆という、折衷天守。

 

大阪城

 

天守からの展望。

 

大阪城

 

金明水井戸屋形。

寛永元年に掘られた井戸で、重要文化財。

江戸時代には黄金井戸とよばれていたもの(江戸時代の金明井戸は少し離れたところにありました)。

 

大阪城

 

山里丸。

本丸の北にあり、秀吉が山里を模した風情で造ったためこの名があるといいます。

 

大阪城

 

豊臣秀頼・淀殿自刃の地碑。

豊臣秀吉が築いた大坂城は広大で堅固なものでしたが、慶長19年、方広寺鐘銘事件を発端とする家康への謀反を理由に徳川家康、秀忠は大坂城の豊臣秀頼を攻め(大坂冬の陣)、和議により大坂城は本丸のみを残して破壊、外堀は埋め立てます。慶長20年、豊臣方が浪人を集めたとして徳川家康・秀忠軍は3万5000人を率いて大坂入り。同5月7日、大坂城を総攻撃。秀頼、淀殿、淀殿付き侍女ら23人は山里丸の蔵へ逃れます。同8日、徳川秀忠は井伊直政に秀頼らが立て籠もる山里丸の蔵を射撃し殺害するよう命じます。射撃が始まると秀頼、淀殿以下23人は蔵の中で自害、蔵は火にかけられ、豊臣宗家は滅亡しました(大坂夏の陣)。

山里丸跡にこの碑が建てられています。

 

 

 

大坂城;大阪市中央区大阪城1-1