寺町通鞍馬口下るにある西園寺です。

 

 

宝樹山竹林院西園寺という浄土宗の寺。

鎌倉時代の元仁元年(1224年)、太政大臣・藤原公経が衣笠山麓の北山山荘に創建。公経はこの寺によって西園寺公経と呼ばれ、西園寺が家名となります。公経の正室・一条全子は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の姪であったことから公経は鎌倉幕府と近く、承久3年(1221年)、承久の乱の勃発をいち早く鎌倉幕府に伝えます。承久の乱後は朝廷と鎌倉幕府の伝令役である関東申次を世襲。公経の外孫・九条頼経は鎌倉幕府4代将軍になるなど権力を持ちました。鎌倉幕府が滅亡すると西園寺家も衰退。建武元年(1334年)、当主・西園寺公宗は北条残党を匿い、西園寺のある北山山荘に後醍醐天皇を呼び出して暗殺しようとしたという咎で捕らえられ、建武2年、出雲国へ配流途上に処刑されます。北山の山荘は室町幕府3代将軍・足利義満の北山第建設により河内の土地と交換となり、西園寺は室町に移転。安土桃山時代の天正年間、豊臣秀吉の都市改造により現在地に移りました。

 

 

本堂。

本尊・阿弥陀如来像を安置。

 

 

本堂に掛かる額。

西園寺公望の手によるもの。

西園寺公望(1849~1940)は第14代内閣総理大臣。右大臣徳大寺公純の次男。母は末広斐子。西園寺師季の養子。学習院で学び、明治元年(1868年)、新潟府知事。明治2年、京都へ帰り、立命館創設。明治3年より明治13年までの10年間、パリへ留学。明治14年、伊藤博文に見いだされ、参事院議官補。明治17年、華族令により侯爵。明治27年、文部大臣となり第2次伊藤博文内閣に入閣。明治31年、第3次伊藤博文内閣でも文部大臣。明治33年、伊藤博文が立ち上げた立憲政友会に参加。明治36年、立憲政友会総裁。明治39年、第14代内閣総理大臣。第一次、第二次内閣を組織した後、大正元年(1911年)、二個師団増設問題で総辞職。桂太郎、山本権兵衛らが組閣すると公望は京都へ帰り清風荘で隠居。大正3年、立憲政友会総裁辞任。大正5年、山県有朋の建議で公望は元老(天皇の諮問役。内閣総理大臣の決定は元老たちによる推挙によりました)に加えられ政界復帰。大正8年、第一次世界大戦終結のパリ講和会議に日本全権として出席。大正9年、公爵。昭和15年まで生きた西園寺公望は元老たちのなかで最も長生きで、公望を最後に元老制度は廃止されたため、最後の元老と言われます。

 

 

地蔵堂。

西園寺公経の北山山荘にあったという槌止地蔵を祀ります。

 

 

 

西園寺;京都市上京区寺町通鞍馬口下る高徳寺町358