七本松通今出川上るにある成就願寺です。

 

 

大報恩寺境内にあります。

室町幕府は直轄領が少なく、大部分を南北朝動乱期、足利氏に味方した守護大名が支配していました。明徳2年(1391年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、日本の六分の一を治める守護大名として「六分一殿」の異名を持った山名氏清を挑発。京へ攻め上った氏清を、奉公衆を中心とする直轄軍で向かい撃ち勝利(明徳の乱)。この戦いにより幕府軍約260名、山名方879名が戦死しました。応永8年(1401年)、足利義満は明徳の乱の戦死者弔いのために北野天満宮境内に成就願寺を創建。三十三間堂の1.5倍という巨大な堂を建てます。この寺は北野経王堂と呼ばれて室町幕府の庇護を受け、応永19年、「北野経王堂一切経(重要文化財)」が奉納されました。

室町幕府の衰退とともに成就願寺も衰退、大報恩寺の末寺となります。寛文9年(1669年)、大報恩寺本堂の大規模修復の際、北野経王堂は解体縮小されて瓦や柱が使われ、成就願寺にあった仏像や経典も大報恩寺に移されました。

明治初期の廃仏毀釈によって成就願寺は廃寺となります。昭和の大修理の際、かつての北野経王堂の部材を取り外して小堂を建て北野経王堂の名を遺したということです。

 

 

 

成就願寺;京都市上京区七本松通今出川上る