明石にある織田家長屋門です。

 

 

元和5年(1619年)、明石城が築城された際に、廃城となった船上城から移築されたと伝わる建造物。船上城は、豊臣秀吉政権下で摂津高槻城主から転封された高山右近が築城。キリスト教の信仰を捨てなかった右近が追放された後は豊臣家の直轄地となりました。慶長5年(1600年)、徳川家康から播磨一国を与えられ姫路藩初代藩主となった池田輝政が姫路城に入ると、その支城となりました。大阪夏の陣後、外様大名の池田家は転封となり、元和3年、播磨は姫路藩、明石藩、赤穂藩、龍野藩などに分藩。姫路藩は譜代大名の本多忠政に与えられます。忠政の娘婿・小笠原忠真は明石城を築城して明石藩初代藩主となり、船上城は廃城となりました。明石城外堀に面して建つこの屋敷は、明石藩家老屋敷として使われました。

織田家長屋門の名があるのは、明石藩家老・織田家の住まいとなったことから。犬山城主・織田信清(織田信長の従弟)は、所領争いにより信長に反旗を翻して敗れ、武田へ出奔。信清は信長の姉・犬山殿を正室としていましたが、このとき離縁となりました。信清の子・津田(織田)信益は許されて信長に仕え、豊臣秀吉家臣を経て結城秀康(徳川家康次男)家臣となります。秀康が越前福井藩初代藩主となると同行。信益の長女・奈和は秀康の側室となり越前大野藩初代藩主松平直良を産んだことから信益の子孫は大野藩に仕えました。大野藩4代藩主松平直明が明石藩に転封となったため同行。家老としてこの屋敷に住んだということです。

 

 

 

織田家長屋門;兵庫県明石市大明石町2