宇治田原にある信西塚です。

 

 

かつてこの地には奈良時代に創建された大道寺がありました。大道寺は衰退した後、関白藤原忠実が復興。院政期には院近臣・藤原信西の荘園になっていました。

平治元年(1159年)、平治の乱が勃発。源義朝らに命を狙われた信西は都から逃亡。荘園のある田原の大道寺に身を寄せます。義朝の郎党たちが近くまで迫ると、信西は地中に穴を掘って隠れましたが、郎党らが信西が隠れた場所を見つけ引きずり出されて首をかき切られ、首は都に持ち帰られて晒し首となりました。現地には、信西塚が建てられています。

 

 

信西入道塚。

信西(1106~1160)は平安時代末期の院近臣。父は藤原実兼。諱は通憲。7歳で父が没し、高階経敏の養子となります。天治元年(1124年)、鳥羽天皇の中宮・藤原璋子の中宮少進。同年、璋子が待賢門院となると待賢門院蔵人。待賢門院女房・藤原朝子(紀伊局)と結婚。大治2年(1127年)、待賢門院が顕仁親王(後の後白河天皇)を出産、妻の朝子が乳母となります。通憲は北面の武士、日向守を経て、康治2年(1143年)、昇進せぬのを不服として出家。信西となります。信西の才を惜しんだ鳥羽上皇は藤原姓に戻すことを許し、信西を「本朝世紀」編者に抜擢。久寿2年(1155年)、近衛天皇早世。美福門院(鳥羽上皇妃)の養子であった守仁親王が後継者となり、その父顕仁親王が即位、後白河天皇となります。信西は後白河天皇の乳父として政の中心人物となります。保元元年(1156年)、鳥羽上皇が崩じると、後白河天皇の兄・崇徳上皇は院政を主張して白河北殿へ入り、藤原頼長、源為義らを集めます。後白河天皇のもとへは信西、平清盛、源義朝らが集結。後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐配流。信西は源為義らを処刑しました(保元の乱)。保元3年、信西と美福門院の「仏と仏の評定」により後白河天皇は退位、守仁親王が即位して二条天皇となります。信西の権勢が高まるにつれ、反信西派が形成されます。平治元年(1159年)、平清盛が熊野詣でへ出掛けた不在時を狙い、藤原信頼、源義朝、源光保ら反信西派が後白河上皇の院御所・三条殿を奇襲し上皇を軟禁。信西は逃亡、荘園のある山城国田原(現在の宇治田原)の大道寺に身を寄せ、地中に穴を掘り箱を埋めてその中に入り地上に竹筒を出して空気を取り隠れます。信西を探しにきた源光保と郎党らが竹筒を発見して土を掘り返したため、刀で喉を突いて自害。光保らはまだ息のある信西を引きずり出して首を切り落とし、都へ持ち帰って晒し首としました。享年、55歳。

 

 

 

信西塚;京都府綴喜郡宇治田原町立川宮ノ前