淡路島にある養宜館跡です。

 

 

室町時代の淡路守護・細川氏の居館が置かれていたとされるところ。

建武3年(1336年)、足利尊氏は、足利一門の細川和氏を四国に派遣。和氏は阿波守護に任命されます。和氏の弟・細川師氏は、淡路島の南朝方武将らと戦って平定、淡路守護に任じられ淡路国に居住。淡路守護所が養宜館だと伝えられます。淡路守護は以降、代々細川氏が勤め、細川氏春、満春、満俊、持親、成春と続きます。成春の後、細川尚春が淡路守護となりますが、永正14年(1517年)、阿波国の国人・三好之長(三好長慶の曾祖父)が淡路島へ攻め込み、尚春は和泉国へ逃亡。永正16年、尚春は阿波において之長に殺害され、淡路守護・細川氏は滅亡。養宜館は廃城となりました。現地には、土塁と掘の跡が残されています。

 

 

土塁跡。

大土居(おどい)と呼ばれていました。

南北250メートル、東西120メートルの広さであったと推定されているそうです。

 

 

観音堂。

現地公民館の一角に建てられています。

 

 

養宜館之碑。

 

 

 

養宜館跡;兵庫県南あわじ市八木養宜中