淡路島にある天王の森です。

 

 

早良親王が最初に葬られたとされる地。

延暦4年(785年)、長岡京造営使・藤原種継が何者かに射殺された藤原種継殺害事件において、桓武天皇は東宮職の役人を処分。桓武天皇の皇太弟であった早良親王も連座して廃され、乙訓寺に幽閉後、淡路国へ配流。早良親王は飲食を与えられなかったとも自ら断ったともされ、河内国高瀬付近で餓死。早良親王の遺体はそのまま淡路国へ運ばれて葬られました。この時の初葬地と伝承される場所。現地は天王の森と呼ばれ、墳墓の目の前の池は天王池と呼ばれるそうです。

延暦7年、藤原旅子(桓武天皇夫人)、延暦8年、高野新笠(桓武天皇母)、延暦9年、藤原乙牟漏(桓武天皇皇后)、同年、坂上又子(桓武天皇後宮)が次々死去。早良親王の怨霊と恐れられます。延暦13年、桓武天皇は長岡京を放棄して平安京に遷都。延暦19年、桓武天皇は早良親王に崇道天皇と諡号、遺体を淡路国から大和国へ改葬しました。

 

 

早良親王墓の道標。

 

 

早良親王(750?~785)は桓武天皇の皇太弟。光仁天皇の第二皇子。母は高野新笠。当初、東大寺に入り出家。宝亀元年(770年)、称徳天皇崩後、藤原式家の後押しにより父光仁天皇が62歳で即位。天応元年(781年)4月3日、光仁天皇譲位、同母兄桓武天皇が践祚。光仁太上天皇の意向により早良親王は還俗、同4日、皇太弟に立てられます。同12月、光仁太上天皇崩。延暦3年(784年)、桓武天皇が長岡京に遷都。延暦4年9月23日、桓武天皇の平城京行幸中、長岡京造営使・藤原種継が何者かに矢で射られ翌日死亡。長岡京遷都に反対する者の仕業とされ、かつて東大寺にいた早良親王に疑いの目が向けられます。同24日、大伴継人ら東宮坊の役人たちが捕獲され、処刑・配流。同10月、早良親王は皇太弟を廃され、乙訓寺に幽閉後、淡路国へ配流。道中、飲食を与えられず(もしくは自ら断った)、同11月18日、河内国高瀬橋において餓死。遺体はそのまま淡路国に運ばれ埋葬されました。同25日、桓武天皇第一皇子・安殿親王(後の平城天皇)が立太子しており、安殿親王擁立を望む桓武天皇が、種継暗殺事件を口実に早良親王の失脚を図ったとする説もあります。

 

 

 

天王の森;兵庫県淡路市仁井