日野にある法雲寺です。
天正山法雲寺という浄土宗の寺。
蒲生賢秀の菩提寺として日野城(中野城)内に創建された法雲庵が始まりであるといいます。蒲生家転封後、元和6年(1620年)、仁正寺藩が立藩。日野城三の丸跡に仁正寺陣屋がおかれたため、現在地に移転となりました。寛永11年(1634年)、伊予藩主・蒲生忠知の死をもって蒲生家は断絶。この寺も荒廃したといいます。延宝4年(1676年)、浄土宗の僧・還譽が復興して法雲寺とし、このときに浄土宗の寺となりました。境内には市橋利政墓もあります。
山門。
本堂。
本尊・阿弥陀如来像を安置します。
手水鉢。
鎌倉時代の宝篋印塔の笠石の部分が用いられているそうです。
蒲生賢秀公墓(左)と、市橋右近利政公之墓(右)。
蒲生賢秀公墓。
蒲生賢秀(1534~1584)は戦国時代の武将。日野城主・蒲生定秀の長男。母は馬淵氏。父とともに六角義賢・義治に仕え、六角家重臣・後藤賢豊の妹と結婚。永禄6年(1563年)、六角義治が後藤賢豊を観音寺城内で暗殺(観音寺騒動)。義賢・義治は家臣団から糾弾され観音寺城を追われますが、蒲生定秀・賢秀が仲裁して義賢・義治を観音寺城に戻します。永禄11年、義賢・義治は足利義昭を擁して上洛途上の織田信長と敵対。同9月12日、六角氏支城の箕作城・和田城が一日で織田軍に落とされたため、義賢・義治は主城の観音寺城を捨て逃亡(観音寺城の戦い)。賢秀は日野城に籠城しますが説得により降伏。子の鶴千代を信長の人質に出し、信長家臣となります。同年、鶴千代は信長の許で元服、賦秀(後に氏郷と改名)と名乗り、永禄12年、信長の意向により信長次女(相応院)と結婚、妻とともに日野城に戻されます。元亀4年(1573年)、信長の命により、鯰江城に立て籠もるかつての主君・六角義治を攻撃。天正10年(1582年)、信長の中国出兵に際し安土城留守居役を命じられ、安土城二の丸に入ります。同6月2日、本能寺の変が勃発。信長を討ち取った明智光秀は安土城へ向かい、同3日、賢秀は信長妻子を安土城から日野城へ避難させ退却しました。同年、賦秀に家督を譲ります。天正12年、51歳で没。
市橋右近利政之墓。
市橋利政(1681~1739)は仁正寺藩の世子。市橋長綱の子。母は市橋長勝女。越後三条藩初代藩主・市橋長勝には娘があるのみで男子がなかったためその死後は所領没収となり改易されかけたものの、姉の子である長政(林右衛門左衛門の三男)が養嗣子として認められ仁正寺藩初代藩主となります。長政の長男政信が仁正寺藩2代藩主となり、四男政勝が世子とされるものの、元禄6年(1693年)、病弱を理由に廃嫡。長勝の外孫であった利政が政信の養子として養嗣子に迎えられます。しかし、元禄11年、利政も病弱を理由に廃嫡。信直(政信の弟の子)が政信の養嗣子として3代藩主になりました。元文4年、59歳で没。
法雲寺;滋賀県蒲生郡日野町西大路1373