伏見にある大光明寺陵です。

 

 

宇治川や巨椋池を見下ろす景勝地・指月丘にあります。

指月丘には平安時代、橘俊綱(藤原頼通の次男)が別荘・伏見山荘を築きます。この地は白河上皇に献上されて皇室の別荘地となり、伏見殿が築かれました。鎌倉時代、伏見殿は伏見上皇、後伏見上皇ら持明院統の院御所となります。暦応2年(1339年)、広義門院(西園寺寧子/後伏見天皇女御)は伏見殿内に大光明寺を創建。伏見殿は北朝に伝えられ、光明天皇、崇光天皇、治仁王はこの寺に葬られました。伏見殿と大光明寺は伏見宮家に伝領されますが、応仁の乱により荒廃しました。

文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は甥の秀次に関白と聚楽第を譲って太閤となり、指月丘に隠居屋敷(後の指月伏見城)の建造を開始します。このとき、相国寺92世・西笑承兌が秀吉に、かつて指月丘にあった大光明寺の復興を願い出ます。慶長16年(1614年)、大光明寺は再建されるも焼失。元和年間、大光明寺は相国寺境内に移されて塔頭となりました。

明治時代に入り、宮内庁が歴代天皇の陵墓比定を行います。光明天皇、崇光天皇の骨壺が置かれていた大光明寺は、すでに元地を去って相国寺塔頭となっており、旧地は不明となっていました。そのためかつて大光明寺があった指月丘に陵墓が整備されました。現地は、豊臣秀吉の指月伏見城跡地にも該当しています。

 

 

「光明天皇大光明寺陵、崇光天皇大光明寺陵、治仁王墓」。
宮内庁設置の看板。

 

 
大光明寺陵。
光明天皇(1322~1380)は北朝第2代天皇。後伏見天皇の第九皇子。母は広義門院(西園寺寧子)。諱は豊仁。鎌倉時代、皇室は後深草天皇に始まる持明院統と、亀山天皇に始まる大覚寺統に分離。鎌倉幕府は、両方の皇統から交互に十年ずつ即位する両統迭立を打ち出しますが、これを拒否した大覚寺統・後醍醐天皇は討幕を企てて隠岐に流され、都では光厳天皇が即位していました。建武元年(1334年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、光厳天皇を否定して建武の新政を開始します。建武3年、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏は、光厳上皇を陣に迎えて錦の御旗を受け勝利。光厳上皇の同母弟・光明天皇が即位して光厳上皇は院政を執り、尊氏は征夷大将軍となって室町幕府を開きます。貞和4年(1348年)、甥の崇光天皇(光厳天皇第一皇子)に譲位。足利将軍家の内紛に端を発する観応の擾乱において、観応2年(1351年)、尊氏が南朝・後村上天皇に帰属、南朝が正統とされ南朝の年号・正平に統一されます(正平一統)。観応3年、後村上天皇は男山に進出、北朝の光厳、光明、崇光の3上皇と廃太子直仁親王を連行。足利義詮が南朝を追い払って後光厳天皇(光厳天皇第二皇子)を即位させるも、北朝の3上皇1親王は後村上天皇に伴われ、賀名生で2年、河内金剛寺で3年を過ごします。光明上皇はその間に出家。正平10年(1355年)、和睦により帰京。康暦2年(1380年)、崩。
崇光天皇(1334~1398)は北朝第3代天皇。光厳天皇の第一皇子。母は陽禄門院(三条秀子)。諱は興仁。暦応元年(1338年)、立太子。貞和4年、即位。足利将軍家内紛に端を発する観応の擾乱において、観応2年、南朝の後村上天皇が正統とされて北朝の崇光天皇は廃され、南朝の年号・正平に統一(正平一統)。観応3年、後村上天皇は男山に進出、同3月、光厳、光明、崇光の3上皇と、廃太子直仁親王を連行。足利義詮が後村上天皇を追うも、退却する南朝は北朝3上皇1親王を連れ去り、賀名生で2年、河内国金剛寺で3年を過ごします。延文2年、和睦により帰京。都では、崇光上皇の弟・後光厳天皇がすでに即位しており、崇光天皇は自身の子・栄仁親王への譲位を主張。後光厳天皇はこれを拒み、応安4年(1371年)、子の緒仁親王へ譲位、後円融天皇が即位。永徳2年(1382年)、後円融天皇が崩じると、再び崇光上皇は栄仁親王の即位を主張しますが、後円融天皇の子・後小松天皇が即位しました。応永5年、失意のうちに崩。
治仁王(1370~1417)は伏見宮家第2代。伏見宮栄仁親王(崇光天皇皇子)の第一王子。母は、三条治子。祖父崇光上皇は父栄仁親王の即位を働きかけるも叶わず、伏見殿と荘園が栄仁親王に与えられたことから世襲宮家となり、居所の伏見殿から伏見宮家と呼ばれます。応永23年11月、父の死により当主となるも、応永24年2月、死去。享年、38歳。
 
 
 
大光明寺陵;京都市伏見区桃山町泰長老