高島にあるえな塚です。

 

 

継体天皇は近江国高嶋郡三尾野と呼ばれていたこの地において彦主人王と振媛の間に誕生したと伝えられます。

日本書紀によれば、彦主人王は男大迹王(後の継体天皇)幼少期に死去。振媛は男大迹王を連れて里へ帰り、越前国高向で育ちます。武烈天皇6年(506年)、武烈天皇が17歳で崩じ、大和王権の男系が断絶。大伴金村は応神天皇5世孫という男大迹王を擁立。男大迹王は57歳にして越前を立ち、58歳で河内国樟葉宮において即位。武烈天皇の姉・手白香皇女を娶り、大后としました。継体21年(527年)、磐井の乱が勃発。継体22年、大和入り。継体25年、継体天皇が崩じると、元妻・尾張目子媛との安閑・宣化の両天皇が相次いで即位するも数年で死亡。その後は前王権の皇女・手白香皇女に繋がる欽明天皇の皇統に統一されました。継体天皇が即位後も長期間大和入りできていないこと、今城塚古墳(大阪府高槻市)が陵墓として有力視されていることなどから、大和に入れなかった事情があり、新王朝であった説もあります。

こちらは継体天皇が産まれた時に胞衣(胎盤)を埋めたと伝わる塚。5世紀頃に築造された直系12メートルの円墳だそうです。

 

 

 

えな塚;滋賀県高島市三尾里