粟田口にある粟田神社です。

 

 

古代、一帯に勢力を持った古代豪族・粟田氏の氏神が祀られていたという伝承があります。

社伝によれば、貞観18年(876年)、疫病が流行、清和天皇が祇園感神院(八坂神社の前身)で祈らせたところ、この地に祀れという神託を得て感神院を勧請して創建されたといいます。感神院の新宮という意味で感神院新宮、或いは祭神の牛頭天王から粟田天王社と呼ばれました。戦乱により祇園感神院の祭礼・祇園御霊会(祇園祭の前身)が行われなかった年には、新宮であるこの社の祭礼をもって祇園御霊会の代わりとしていたそうです。平安時代末期、青蓮院の里坊が付近の三条白川に作られるとその鎮守社となりました。

慶応4年(1868年)、神仏分離令により、仏教系を排除した粟田神社に改められます。境内にあった不動堂や観音堂などの仏教関連施設は取り壊され、本地仏・薬師如来像は青蓮院に移され、祭神も改められました。

旧東海道の東の出入り口である粟田口にあることから、古来、旅の安全を祈願する人々でにぎわった社です。

 

 

一の鳥居。

 

 

二の鳥居。

 

 

二の鳥居に掲げられた「感神院新宮」の扁額。

幕末の神仏分離令以前の社名で、祇園感神院(八坂神社の前身)の新宮の意味。

 

 

参道。

 

 

舞殿。

 

 

拝殿。

 

 

本殿。

祭神は、首座に建速素盞鳴尊と大己貴命、右座に八大王命、左座に奇稲田媛命、神大市比賣命、佐須良比賣命。

 

 

光格天皇御胞衣之松。

光格天皇の胎盤が埋められた場所。

光格天皇(1771~1840)は閑院宮典仁親王の第六王子。母は大室磐代。幼名、祐宮。出家予定で聖護院に入ります。安永8年(1779年)、後桃園天皇が22歳で崩じ、生後間もない欣子内親王のみが残されます。皇族男子の中で唯一未婚で出家前であった祐宮が欣子内親王の配偶者として後継に選ばれ、9歳で即位。践祚後、諱を兼仁(ともひと)と改めます。天明8年(1788年)、光格天皇が実父の典仁親王に太上天皇号を贈ろうとして江戸幕府に拒否される尊号一件が起こります。寛政6年(1794年)、16歳になった先帝の遺児・欣子内親王と結婚、中宮に立てられます。石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭礼を復活するなど朝廷復古に尽力。文化14年(1817年)、47歳で譲位。天保11年(1840年)、69歳で崩。

 

 

毎年10月の体育の日前後に行われる粟田祭の夜渡り神事で出される粟田大燈篭の一部が能楽堂に飾られています。

 

 

境内から北方面。

中央の赤い鳥居は平安神宮。

 

 

 

粟田神社;京都市東山区粟田口鍛冶町1