今出川堀川東入るにある伴緒社です。

 

 

白峯神宮の末社。

白峯神宮に崇徳天皇が祀られていることから、明治11年(1879年)、保元の乱で崇徳上皇方に参じて敗れた源為義・為朝を祀って創建されました。

源為朝は鎮西八郎と呼ばれ弓の名手として知られたことから、武道の神ともなっています。

 

 

祭神は、源為義公と鎮西八郎為朝公。

源為義(1096~1156)は源義親の四男。関白藤原忠実・左大臣藤原頼長に仕え、検非違使、左衛門少尉などを歴任。久寿2年(1155年)、庶長子・義朝がその子・義平に命じて東国で異母弟の義賢を殺害、義朝と不和となります。保元元年(1156年)、保元の乱が勃発。為義は頼長に従って崇徳上皇方につき、頼賢、為朝といった息子たちも従うも、不和であった義朝は後白河天皇方につきます。義朝は崇徳上皇の立て籠る白河北殿に夜襲をかけ、後白河天皇方が勝利、為義は降伏。義朝は父の助命歎願をするも叶わず斬首。享年、61歳。

源為朝(1139~1170)は源為義の八男。13歳の時に狼藉のため父から勘当されて九州追放、現地で平忠国の娘婿となり九州平定。久寿2年、朝廷の出頭命令によって上洛。保元元年、保元の乱が勃発。父とともに崇徳上皇方に参陣。夜討を進言しますが、藤原頼長に卑怯であると退けられたといいます。この夜、後白河天皇方についた庶兄・義朝が崇徳上皇の立て籠る白河北殿を夜襲、後白河天皇方が勝利。東国へ落ちる途上、近江国坂田で捕らえられます。その際、弓を引けないよう肘を外されて伊豆大島へ流されました。そこで三郎大夫忠重の娘婿となり再び暴動をおこし、永万元年(1165年)、伊豆七島を支配。嘉応2年(1170年)、為朝討伐の院宣が下り、伊東氏、北条氏、宇佐美氏らに攻められ自害。享年、32歳。

 

 

 

伴緒社;京都市上京区今出川堀川東入る飛鳥井町