鞍馬口にある御霊神社(上御霊神社)です。

 

 

鴨川西、鞍馬口通付近の一帯は弥生時代に出雲国から移住したという古代豪族・出雲氏の勢力地であり、7、8世紀頃に氏寺である出雲寺が創建されたと考えられています。出雲寺は北と南に分かれ、それぞれ上出雲寺、下出雲寺と称しましたが、この社は上出雲寺の鎮守社として創建されたとされます。

平安京遷都が行われるとこの社は朝廷に取り込まれていきます。貞観5年(863年)、疾病の流行は不遇な死を遂げた人物が怨霊となって祟るためという信仰に基づき、清和天皇は神泉苑で怨霊鎮魂の為の御霊会を行います。このとき祀られたのが六所御霊(崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(藤原吉子)、観察使(藤原仲成か。ただし上御霊神社では井上内親王 、下御霊神社では藤原広嗣が祀られる)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂))であり、これに二柱を加えた八所御霊がこの社に祀られ御霊神社となります。社の南には同じく八所御霊を祀る下御霊神社があったため、上御霊神社と通称されました。

鎌倉時代頃、上出雲寺は衰退し、かつて上出雲寺に安置されていた観音菩薩像(出雲路観音)は鎮守社であった上御霊神社境内の観音堂に祀られるのみとなりました。文正2年(1467年)、畠山政長と畠山義就が上御霊神社で私闘(御霊合戦)。これを契機に応仁の乱が勃発したことから、応仁の乱勃発地の碑が建てられています。

慶応4年(1868年)の神仏分離令により上御霊神社境内にあった観音堂は廃され、明治3年、出雲路観音は念仏寺に移されています。

明治時代、明治天皇によって非業の死を遂げた祭神が追加され、相殿に小倉実起、小倉公連、中納言典侍、小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)が祀られました。

神仏霊場巡拝の道99番(京都19番)札所。京都十六社朱印めぐりの一つ。

 

 

南門。

 

 

舞殿。

上御霊神社では例祭の御霊祭を古くは旧暦7月18日に神幸祭、8月18日に還幸祭を行っていましたが、現在は5月1日に神幸祭、5月18日に還幸祭を行っています。4月29日の昭和の日に神輿の蔵出しが行われ、還幸祭翌週日曜日の神輿の蔵入りまで、舞殿で神輿を見ることができます。

向かって左手から、小山神輿、末広神輿、今出川口神輿。

 

 

小山神輿。

 

 

末広神輿。

 

 

今出川口神輿。

 

 

弊殿。

 

 

本殿。

天明の大火で焼失後、享保18年、御所の賢所を下賜されたもの。

祭神は、吉備聖霊(吉備真備ともいわれるが憤死した6柱の聖霊とも)、崇道天皇(早良親王。兄桓武天皇に謀反の疑いをかけられ淡路国へ配流される途上に餓死)、井上大皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后。光仁天皇を呪詛したとして廃皇后、他戸親王と共に幽閉され不審死)、伊予親王(兄平城天皇に謀反を興したとして幽閉後服毒自殺)、藤原大夫人(藤原吉子。桓武天皇の夫人。伊予親王と共に服毒自殺)、橘大夫(橘逸勢。東宮・恒貞親王を擁して仁明天皇に謀反を起こしたとして伊豆国へ配流となり現地で死去)、文大夫(文屋宮田麻呂。謀反の疑いで伊豆国へ流され現地で死去)、火雷天神(菅原道真とも言われるが憤死した6柱の神とも)の八柱。

相殿に小倉実起、小倉公連、中納言典侍、小倉季判(以上の4名は小倉事件で処罰された人々。霊元天皇は四宮・朝仁親王(後の東山天皇)を儲君に立てるため一宮(済深法親王)に出家を命じるも、一宮の母・中納言典侍、外祖父・実起、叔父・公連と季判らは一宮の即位を主張し反対。実起、公連、季判は佐渡に配流となり現地で没)、若宮に和光明神(菅原和子。光格天皇の典侍。懐妊中に何者かに突き飛ばされて御所の廊下から落ち腹の子と共に死亡)が祀られます。

 

 

応仁の乱勃発地碑。

文正2年(1467年)、上御霊神社境内で御霊合戦が行われたことに由来します。

河内・紀伊・山城・越中の守護大名、畠山持国は嫡子がなく弟持富を後継としていましたが、文安5年(1448年)、室町幕府8代将軍・足利義政に願って庶子の義就を後継とし、享徳4年(1455年)、持国が死ぬと家督継承。この継承が守護代らの支持を得られず、持富の子・政長を推す勢力が形成されます。康正3年(1457年)、義就は将軍義政の上意であるとして、政長を支持する大和国守護・筒井順永を攻めます。これは許可を得ない私兵の派遣だとして将軍義政の逆鱗に触れ、寛正元年(1460年)、家督は政長に替えられ義就は吉野で蟄居。寛正4年、恩赦により義就釈放。寛正5年、政長は管領に就任。寛正6年、義就は山名宗全の支援で挙兵し上洛、宗全の仲介で将軍義政に拝謁。畠山家の家督は義就に戻され、政長は管領を罷免されます。義就は政長に洛中の畠山邸明け渡しも要求。追い詰められた政長は、文正2年(1467年)1月18日、畠山邸に火を放って北へ進軍、上御霊神社に陣を張ります。義就は宗全と共に上御霊神社へ進軍し、政長を攻撃。私闘とされたために政長に援軍はなく、義就が勝利。政長は上御霊神社拝殿に火を放って逃亡、細川勝元邸に逃げ込みました(御霊合戦)。これを機に11年にわたる応仁の乱が勃発しています。

 

 

 

上御霊神社;京都市上京区上御霊前通烏丸東入る上御霊前町495