今出川通烏丸東入にある林光院です。

 

 

相国寺の塔頭。

足利義嗣の菩提を弔うために創建され、当初は西ノ京二条にあったといいます。寺名は、義嗣の法号・林光殿亜相考山大居士から取られました。応仁の乱で等持寺傍に移転し、その後も数度移転しました。

安土桃山時代、豊臣秀吉が雲叔周悦に林光院を独住として与えます。このとき雲叔周悦が林光院を相国寺境内に移し、相国寺塔頭となりました。

明治初期の廃仏毀釈で廃絶し、その後復興しています。

 

 

境内。

足利義嗣(1394~1418)は室町幕府3代将軍・足利義満の四男。母は、春日局。義嗣が生まれた年、父義満は隠居、異母兄・足利義持が室町幕府4代将軍となります。義嗣は嫡男以外は出家するという足利将軍家の習わしによって梶井門跡に入りますが、応永15年(1408年)、父義満に呼び戻されて北山第に入り15歳で還俗。同3月、北山第に行幸した後小松天皇から天盃を受けます。同4月25日、宮中で元服、従三位参議。同5月6日、父義満が北山第で死去すると義持は兵を率いて北山第に入り、義嗣は北山第を追われました。同7月23日、権中納言、応永16年1月5日、正三位。応永18年11月21日、従二位。同25日、権大納言。応永21年1月5日、正二位。応永23年、鎌倉公方・足利持氏と前関東管領・上杉禅秀が争い、将軍義持は持氏に味方、禅秀は自害(上杉禅秀の乱)。義嗣は禅秀の娘を側室としていたため禅秀への加担を疑われ、応永24年、都を出奔。義嗣は捕らえられて相国寺に幽閉された後、応永25年1月24日、義持の命を受けた富樫満成によって殺害されました。享年、25歳。

 

 

薩藩戦死者墓。

甲子役(禁門の変)と戊辰役(鳥羽伏見の戦い)で戦死した薩摩藩士72人の合同墓。

林光院の境外墓地にあります。

 

 

 

林光院;京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺前町701