東山にある来迎院です。

 

 

明応山来迎院といい、泉涌寺の塔頭。

空海が来迎院の建つ場所の背後の山を聖地と考え、留学先の唐で感得した三宝荒神(三宝とは人が生きるのに必要な衣食住のこと)を祀って創建したと伝わる寺。

建保6年(1218年)、泉涌寺4世・月翁智鏡が麓の現在地に堂宇を建てて泉涌寺塔頭とし、月翁智鏡を開山としています。

元禄14年(1701年)、江戸城松之廊下刃傷事件により赤穂藩主・浅野長矩が切腹。赤穂藩浅野家が取り潰しとなります。赤穂藩浅野家家老・大石内蔵助は浪人となり、親戚の泉涌寺89世・卓巖韶興を頼って上洛。来迎院の檀家として寺請証文を発行してもらい、山科に隠棲します。内蔵助は来迎院に茶室・含翠軒を建て、討ち入りまでの間、茶会と称して来迎院でたびたび赤穂浪士と談合を持ったと言います。

泉山七福神巡り4番札所(布袋尊)。

 

 

本堂。

本尊・阿弥陀如来像を安置します。

霊元天皇の念持仏である幻夢観音菩薩坐像、大石内蔵助の念持仏である勝軍地蔵像も安置されています。

 

 

荒神堂。

木造荒神坐像(鎌倉時代/重要文化財)、木造護法神立像5躯(鎌倉時代/重要文化財)を安置します。

 

 

 

来迎院;京都市東山区泉涌寺山内町33