東山にある即成院です。

 

 

光明山即成院といい、泉涌寺の塔頭。

平安時代中期、橘俊綱が伏見・指月丘の別邸に創建した伏見寺即成就院が始まり。

橘俊綱(1028~1094)は関白藤原頼通の次男。母は藤原祇子。父頼通には隆姫女王という正室があり母は隠し妻であったため、讃岐守・橘俊遠の養子に出されます。長久5年(1044年)、長兄通房が早世すると、同母妹の寛子、同母弟の師実が頼通の実子として世に公表され、寛子は後冷泉天皇の中宮、師実は関白となります。俊綱は中宮、関白の同母兄でありながら養子に出された身であり、尾張守、播磨守、讃岐守などを歴任して受領で終わりました。伏見・指月丘に別荘を建造。寛治8年(1094年)、死去。

文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の指月伏見城築城により、深草大亀谷に移転。廃仏毀釈により明治5年(1872年)、廃寺となり、即成院にあった仏像は泉涌寺に移されました。明治32年、泉涌寺塔頭・法安寺と合併、明治35年、現在地に法安寺として復興。昭和16年、即成院の名称が復活しました。

泉山七福神巡り1番札所(福禄寿)。

 

 

門の上にある鳳凰像。

かつて、即成院が伏見・指月丘にあった頃、宇治川の対岸には開基・橘俊綱の実父である藤原頼通が創建した平等院があり、両寺は宇治川を挟んで向かい合っていました。それにちなんで、今も平等院のほうを向いているとのこと。

 

 

本堂。

木造阿弥陀如来像及二十五菩薩坐像(重要文化財)を安置します。

本尊の阿弥陀如来像及び二十五菩薩坐像のうちの11体は、平安時代に橘俊綱が造らせた創建当初のもの。残る14体の菩薩像は江戸時代に補作されたものだそうです。

 

 

地蔵堂。

 

 

 

即成院;京都市東山区泉涌寺山内町28