粟生にある光明寺です。

 

 

報国山念仏三昧院光明寺といい、西山浄土宗の総本山。

開基は蓮生。蓮生は俗名を熊谷直実といい、源頼朝の御家人となり、平家追討を行う源義経の軍に加えられて一の谷の戦いに参戦。17歳の平敦盛を一騎討ちで討ち取るも世の無常を思い、浄土宗開祖・法然に師事して出家。建久9年(1198年)、蓮生が法然を開山として念仏三昧院として創建したのが始まり。当初は浄土宗の寺でした。

建暦2年(1212年)、法然が京・東山大谷で没。嘉禄3年(1227年)、法然の始めた専修念仏(浄土宗)を批判する延暦寺は、高弟の流罪を朝廷に強訴し三僧が配流(嘉禄の法難)。更に延暦寺僧兵たちは法然の廟所を破壊、法然の遺体を鴨川に流す噂が流れたため弟子たちは法然の遺体を掘り起こして二尊院に運び入れたものの延暦寺僧兵に見つかり、更に来迎院に運びます。安貞2年(1228年)、法然の遺体はこの寺に運ばれ、荼毘に伏されます。このとき石棺が光ったという伝承から、仁治3年(1242年)、四条天皇が光明寺の寺号を与えます。法然の遺骨は知恩院に収められましたが、光明寺にも分骨されており、廟所があります(非公開)。

明治9年、浄土宗西山派の西本山(東本山は禅林寺、北本山は誓願寺)。大正9年、浄土宗西山光明寺派の総本山として分離。戦後、西山浄土宗として独立しています。

法然上人二十五霊場16番札所。京都洛西観音霊場7番札所。

 

 

参道。

 

 

御影堂。

光明寺の本堂。

宝暦4年(1754年)の建造物。

本尊・張子の御影を安置します。

張子の御影は、法然が13歳で延暦寺に入って出家するときに母から貰った手紙を、晩年、水に浸して貼り付け自像を作ったとされるもの。古くは二尊院にありましたが、いつしかこちらに移されたそうです。

 

 

阿弥陀堂。

寛政11年(1799年)の建造物。

安置されている阿弥陀如来像は、もとは近江国浮御堂千体仏の中尊像でしたが、開基・蓮生が法然に弟子入りする際に背負ってきたと伝えられています。

 

 

観音堂。

光明寺は京都洛西観音霊場7番札所であり、千手観音像(平安時代・重要文化財)が祀られていましたが、現在、この千手観音像は京都国立博物館に寄託されています。

現在こちらにあるのは京都洛西観音霊場8番札所・粟生山観音寺の千手観音像。観音寺が無住職のため普段は光明寺にありますが、正月や行事の際には観音寺に戻されるとのこと。

 

 

 

光明寺;京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1