甲良にある勝楽寺です。


勝楽寺

 

慶雲山勝楽寺といい、臨済宗妙心寺派の寺。

延元2年(1337年)、北近江に勢力を持った京極氏出身の佐々木道誉(京極高氏)が背後の正楽寺山に勝楽寺城を築き、麓のこの地に居館を置きます。暦応4年(1341年)、道誉は雲海を開山に迎え居館に寺を創建。寺名は道誉の法号、勝楽寺殿徳翁道誉から取られました。道誉は以降、没するまでここに住みました。

戦国時代の永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで織田信長に敗れ、居城の観音寺城を放棄した六角氏は、甲良に拠点を移しますが、元亀元年(1570年)、六角承偵は浅井長政や朝倉義景と同盟を結んで再び織田信長と戦います。その際、勝楽寺は六角承偵の一派を匿ったために信長に焼き討ちされています。


勝楽寺

 

山門。

背後の山にあった勝楽寺城の城門を、江戸時代に移築したものと伝わります。


勝楽寺

 

本堂。


勝楽寺

 

道誉記念堂。

内部に佐々木道誉の木像が安置されています。


勝楽寺

 

鐘楼。


勝楽寺
勝楽寺

 

佐々木道誉公墓。

佐々木道誉(1296~1373)は南北朝時代~室町時代の武将。諱は高氏。道誉は法名。佐々木宗氏の四男。母は佐々木宗綱女。母方の叔父である京極家当主・佐々木貞氏の養子となり、京極家を相続。鎌倉幕府に仕え、正中3年(1226年)、得宗北条高時が出家した際には共に出家。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府滅亡時、京から近江へ逃げてきた北朝の光厳天皇、後伏見・花園上皇を捕え三種の神器を奪って後醍醐天皇に引き渡すなどし、以後は足利尊氏に協力。中先代の乱鎮圧に向かう尊氏軍に同行し後醍醐天皇からの離反を勧め、一度は敗れた尊氏が九州から攻め上ると後醍醐天皇が逃げた比叡山延暦寺を包囲するなどして戦功を立てます。尊氏が室町幕府を開くと、道誉は若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任。近江守護は佐々木氏嫡流の六角氏に与えられるものでしたが、この頃京極氏は六角氏の勢力を凌ぐほどでした。暦応3年、道誉は妙法院の僧兵が京極家家臣を打倒したとして長男秀綱と共に妙法院亮性法親王の御所を焼き討ち、上総国に流罪となります。道誉は道中宿所に付くたびに遊女を呼び宴を開いて反省の色なく、いつの間にか近江に戻ってきます。その後も室町幕府の評定衆や政所執事を勤め、京極家が室町幕府四職の一家となる基を築きました。華美な服装を好み風流を愛した婆娑羅大名であり、延文元年(1356年)、二条良基撰による準勅撰連歌集「菟玖波集」の成立に関与、道誉の連歌も81首入っています。応安6年(1373年)、78歳で死去。

 


勝楽寺;滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4