関ケ原古戦場床几場です。


床几場

 

慶長5年(1600年)9月15日の関ケ原の戦いで、東軍総大将・徳川家康が最後に陣を置いた場所。

慶長3年8月18日、豊臣秀吉が伏見城で没すると、家康は天下取りに動き出します。家康は伏見城に入り、伊達、蜂須賀、福島らの諸大名と次々婚姻を結びます。慶長4年1月、前田利家が秀吉の定めた私婚の禁に当たると家康を咎め、家康派と利家派の諸大名が両者の屋敷に集まり一発即発となります。利家は家康の主張を全面的に認めて折れ、対立を回避。閏3月3日、利家が亡くなります。

同8月、家康は前田利長を領国の加賀に帰らせた上で、利長が謀反を起こしたとして前田征討を決定。利長は実母芳春院を人質として送り家康に臣従。慶長5年4月、家康は上杉景勝に対しても神月城の改修を行ったことを理由に謀反と断じ、申し開きのための上洛と臣従を求めますが、景勝は直江状を送り付けて拒否。同6月16日、家康は7歳の豊臣秀頼の命を奉じる形で大坂城から上杉征討に出立しました。

同7月、石田三成らが家康討伐を計画。同10日、西軍総大将として毛利輝元が大坂城入り。同11日、伏見城の戦いが勃発。同24日、西軍挙兵の報を上杉征討途上の下野国小山で受けた家康は、同25日、小山評定を行い、上杉征討に同行する豊臣恩顧大名たちに対して、秀頼に害は及ばないこと、三成一人を討つ戦いであることを明言、東海道を大坂城をめがけて引き返します。その際、兵を二軍に分け、秀忠隊は中山道を進みました(秀忠隊は関が原に間に合わず)。

石田三成は大垣城に入り籠城する構えを見せますが、同9月14日、小早川秀秋が大垣城を見下ろす松尾山に着陣。秀秋は家康に内通の噂があったため、背後を突かれることを怖れた三成は大垣城を出、笹尾山に着陣。関ヶ原が決戦の舞台となります。

同15日、西軍より遅れて関が原入りした家康は、桃配山に東軍本陣を置きます。午前8時頃、東軍先陣・福島正則が西軍・宇喜多秀家隊を攻撃して開戦。東軍は福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、京極政高、本多忠勝、井伊直政らが激しく交戦するも、午前中は一進一退。西軍の毛利や小早川は兵を動かさず、三成は南宮山に陣取る毛利秀元に出陣を要請しますが、毛利の前衛隊であった吉川秀元が黒田長政に調略され毛利の兵を一兵も通さず、親戚である吉川家との身内の争いを嫌った毛利は一戦も交えず傍観。正午頃、かねてより家康と通じていた小早川秀秋が東軍に寝返り、不意を突いて西軍を攻撃。西軍・大谷吉継が自害、宇喜多秀家、小西行長隊も崩れます。

家康は桃配山を降りて前進、石田三成が陣を置く笹尾山まで1キロの場所に東軍本陣を移し、東軍武将を鼓舞して激しく攻め立てさせます。この時に家康の陣が置かれたと伝わるのがこの場所になります。

午後1時頃、三成は敗走。午後2時頃、最後まで関ケ原に残っていた西軍・島津義弘が家康の目前を敵中突破して、関ケ原の戦いは東軍・徳川家康の勝利で終わりました。

家康はこの場所で東軍武将から次々と届けられる西軍武将の首を首実験にかけ、東首塚と西首塚に埋めさせました。


床几場

 

床几場徳川家康進旗験首戦處碑。

床几とは、戦場の陣などで用いられる持ち運びのできる折り畳み椅子のこと。

徳川家康がこの地に床几場を設け、首実験を行ったことを表します。

床几場

 

現地の周囲には土塁が築かれ、中央の碑付近は高台が築かれています。

江戸時代の天保12年(1841年)、家康の偉業を残すため現地の領主・竹中家が築いたもの。


床几場

 

徳川家康の旗印。

 

 

 

関ケ原古戦場 床几場(徳川家康最後陣跡);岐阜県不破郡関ケ原町