関ケ原古戦場決戦地碑です。
慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ヶ原の戦いにおいて最大級の戦が行われた地。
同6月16日、天下取りに乗り出す徳川家康は、大坂城で7歳の豊臣秀頼に拝謁し人質を出すことを拒んだ上杉景勝の討伐を報告。同17日、居城・伏見城を出立。同7月12日、石田三成は佐和山城において大谷吉継、安国寺恵瓊らと家康討伐を計画。同17日、毛利輝元が西軍総大将として大坂城に入ります。同18日、西軍は家康の譜代家臣で伏見城留守居役の鳥居元忠に伏見城明け渡しを命じますが元忠は拒否して籠城、伏見城の戦いが勃発。同24日、家康のもとに西軍挙兵の報が届きます。翌25日、家康は滞在中の下野国小山において小山評定を行い、大坂城奪還のため東海道を引き返すことを決定。家康は兵を2つに分け、家康は東海道を、世子秀忠は中山道を進みます(秀忠隊は関ケ原の戦いに間に合わず)。同8月1日、伏見城陥落。
三成は美濃国大垣城に入り東軍を迎え撃つべく供えます。同9月14日、小早川秀秋が大垣城を見下ろす松尾山に15000の兵で着陣。秀秋は西軍でしたが三成と不仲であったため背後を突かれるのを怖れて大垣城を撤退、同15日、関ヶ原を主戦場とすることに決します。東軍よりも先に現地に入った西軍は、石田三成が笹尾山、宇喜多秀家が天満山、毛利秀元・吉川広家が南宮山と見晴らしの良い高所を陣取ります。遅れて到着した東軍は、桃配山に徳川家康本陣3万が陣取り、東軍武将がそれを守るように配置されました。
同9月15日、午前8時頃、東軍先陣・福島正則が西軍・宇喜多秀家を先制攻撃して合戦は開始。午前中は、東軍・西軍が一進一退を繰り返します。三成は毛利秀元率いる15000の毛利軍に家康本陣への突撃を要請しますが、毛利の前衛隊であった吉川広家が家康に内通して兵を通さず、毛利は傍観。正午過ぎ、小早川秀秋隊が東軍へ寝返り、北隣にいた西軍の大谷吉継隊を突如攻撃、吉継は自刃。大谷隊の北にいた宇喜多秀家、小西行長隊も崩れ、西軍は退却を始めます。家康は東軍を奮起させるべく桃配山を下り、石田三成の陣がある笹尾山から1キロの場所に本陣を移動。東軍武将らを決起させ三成を激しく攻めさせます。笹尾山麓のこの地は最大の激戦地となりました。
東軍は西軍の3倍近い数に膨れ上がり、毛利秀元は一戦も交えぬまま撤退。午後1時頃には石田三成も敗走。西軍のうち最後まで関ケ原で戦った島津義弘は、島津の退き口と呼ばれる強行突破で午後2時頃に撤退。東軍・徳川家康の勝利が確定し、天下が定まりました。
関ケ原古戦場 決戦地碑;岐阜県不破郡関ケ原町