三十三間堂廻にある法住寺です。


法住寺

 

天台宗の寺。

平安時代中期、太政大臣藤原為光(藤原道長の叔父)が創建。為光は家運を賭けて娘の忯子を花山天皇に入内させますが、寛和元年(985年)、忯子は17歳で死去。寛和2年、寵妃の死を嘆いた花山天皇も19歳で出家してしまいます。同時期に妻も亡くした為光は、永延2年(988年)、妻と娘の菩提を弔うため、この寺を創建。為光死後、長元5年(1032年)に伽藍焼失。院政期に信西の妻が堂を一つ寄進。その後は衰退しました。

保元3年(1158年)、後白河上皇は一帯に巨大な院御所を建設。永暦2年(1161年)に完成したこの院御所は、法住寺殿と呼ばれます。安元2年(1176年)、法住寺殿で後白河上皇の寵妃・建春門院(平滋子)が没すると、法住寺殿内の仏堂・蓮華王院(三十三間堂)の東正面に葬られ、法華堂が建てられます(現在の養源院付近)。寿永2年(1183年)、木曽義仲が後白河法皇を攻めた法住寺合戦により法住寺殿は焼失。建久3年(1192年)、後白河法皇が六条殿で崩じると建春門院陵の南隣に葬られ、同様に法華堂が建てられました。鎌倉時代には衰退、建春門院陵法華堂は朽ちてなくなりました。

安土桃山時代、関白豊臣秀吉が京の大仏の造立を始めるとその境内に取り込まれます。豊臣宗家滅亡後の元和元年(1615年)、徳川家康の命により方広寺旧域は妙法院が管理を任されます。妙法院は方広寺旧域にあった後白河法皇陵を守る寺として法住寺を復興。法住寺は妙法院門跡墓も管理する寺となりました。

明治時代、それまで法住寺が管理していた後白河天皇陵、妙法院門跡墓は宮内庁管轄となり、法住寺から分離。法住寺も妙法院から独立。一時期、大興徳院と改称しましたが、昭和30年、寺名を法住寺に戻しています。

法住寺

 

竜宮門。

かつて、後白河天皇陵正門があった場所。後白河天皇陵を法住寺が管理していた幕末までここに参道がありました。明治以降、後白河天皇陵は宮内庁管轄となり法住寺と切り離されたため、現在は繋がっていません。


法住寺

 

玄関。


法住寺

 

不動堂。

本尊・不動明王像を祀ります。

この不動明王像は平安時代の作と伝わり、法住寺合戦の時に後白河法皇を身代わりになって守ったと伝わることから身代不動尊の名があります。

 

 

 

法住寺;京都市東山区三十三間堂廻り町655