2016年4月10日、醍醐寺で行われた豊太閤花見行列です。
慶長3年(1598年)3月15日、太閤・豊臣秀吉が醍醐寺で催した盛大な催事、醍醐の花見。秀吉は事前に約700本の桜を醍醐寺に植樹、拠点の会場となる醍醐寺三宝院に建物や庭を寄進。警備役や接待役として家臣が参加しているものの、秀吉と秀頼以外の約1300人の招待客は女性でした。当日、秀吉や招かれた女性たちは醍醐寺三宝院を拠点に8人の家臣が出した8つの茶屋を回り、湯殿や夕餉の接待を受け、歌会を催します。参加者たちによって詠まれた歌は「醍醐花見短冊帖(重要文化財)」として現存。参加女性たちには2度の衣装替えが許され、合計3着の着物を新調させたそうです。秀吉は翌年の開催を約すも、この年の8月18日、伏見城において62歳で没しました。
醍醐の花見を模して、毎年4月の第2日曜日、醍醐寺において豊太閤花見行列が行われます。行列は醍醐寺三宝院を出発。醍醐寺金堂前において舞楽奉納を見物、また醍醐寺三宝院に戻ってきます。
醍醐寺三宝院の国宝・唐門。
豊臣秀吉の寄進によるもの。
普段は門が閉じられていますが、豊太閤花見行列が行われる日には開かれ、ここから行列が出てきます。
義演僧正。
醍醐の花見が行われた時の醍醐寺座主。
秀吉と親交があり、醍醐の花見を実現させました。
太閤・豊臣秀吉。
醍醐の花見の主催者。
毎年地元経済界の功労者が秀吉に扮するそうで、今年は株式会社ワコールの代表取締役社長とのこと。
北政所。
秀吉の正室。
「醍醐花見短冊帖」では「まん所さま」の名で載ります。「たいかうさまぐんきのうち」によれば秀吉は6人の女性に伏見城から醍醐寺まで輿を許しており、その最初の輿に乗りました。
淀殿。
秀吉の側室。
「醍醐花見短冊帖」では「にしの丸さま」の名で残ります。「たいかうさまぐんきのうち」によれば2番目の輿に乗ったと言います。
松の丸殿。
秀吉の側室・京極竜子。
「醍醐花見短冊帖」では「まつの丸さま」の名で残ります。「たいかうさまぐんきのうち」によれば3目の輿に乗りました。
三の丸殿。
秀吉の側室。織田信長の五女。
「醍醐花見短冊帖」では「三の丸さま」の名で残ります。「たいかうさまぐんきのうち」によれば4番目の輿に乗りました。
加賀殿。
秀吉の側室・摩阿姫。前田利家の三女。
「醍醐花見短冊帖」では「かがさま」の名で残ります。「たいかうさまぐんきのうち」によれば5番目の輿に乗りました。尚、6番目の輿は加賀殿の母で北政所と親交の深かった「大なごん殿御内(利家の正室・まつ)」。
お鍋の方。
織田信長の側室でしたが、信長の死後は秀吉の正室・北政所に仕え、孝蔵主らとともに側近であったと言います。
甲斐姫。
成田氏長の娘で秀吉の側室になったと伝えられる人物。「醍醐花見短冊帖」に「可ひ」の名があり、参加した可能性があるとのこと。
徳善院内。
前田玄以の妻。
玄以は信長・秀吉に仕える前に僧籍にあったと言われ、徳善院は玄以の法号。玄以は醍醐の花見の接待役を命じられ、茶屋を出したと伝えられます。