東大寺 法華堂(三月堂)~聖武天皇発願の寺 | 古都の礎

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奈良にある東大寺法華堂です。

東大寺 法華堂

 

東大寺は、華厳宗総本山。正式名称は、金光明四天王護国之寺。

上院と呼ばれる高台にあり、旧暦3月に法華会が行われるために三月堂の称があります。不空羂索菩薩像を安置することから古くは羂索堂と呼ばれ、天平勝宝8歳(756年)に描かれた「東大寺山界四至図」にも羂索堂として描かれています。高台にあることから南都焼き討ちや東大寺大仏殿の戦いの戦火を免れ、奈良時代のものが現存。法華堂は正堂と礼堂からなりますが、このうち正堂は現存する東大寺最古の建造物。東大寺創建以前の前身寺院のものと推定されています。

東大寺創建以前この地には、神亀5年(728年)、聖武天皇と光明皇后が生後一年に満たず没した皇太子・基王の菩提を弔うため創建した金鐘寺、天平10年(738年)、光明皇后が皇太子・阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)のために創建した福寿寺がありました。

天平13年、聖武天皇により国分寺建立の詔が出されると、金鐘寺や福寿寺は統合され大和国国分寺である金光明四天王護国之寺(金光明寺)が成立。天平15年、当時、恭仁京に滞在していた聖武天皇は、大仏造立の詔を発布。離宮の紫香楽宮で大仏造立を開始、天平17年、紫香楽宮に遷都。火災などで断念、同年、平城京に都を戻すと、天平19年、金光明寺に大仏造立を開始。金光明寺は総国分寺となり東大寺と呼ばれるようになりました。

羂索堂と呼ばれていたこの堂は、東大寺の前身寺院である金鐘寺本堂、あるいは福寿寺本堂であった可能性が指摘されています。二月堂北の約200メートル高い場所にある丸山西遺跡から法華堂正堂に先行する時代の瓦が発見されたことから、こちらを充てる説もあります。


東大寺 法華堂

 

法華堂(三月堂)。

国宝。

西面から見たところで、北側(左側)が正堂、南側(右側)が礼堂。

正堂は東大寺前身寺院からのもので、東大寺最古の建造物。

もともと礼堂は正堂の前に別棟で建てられていましたが、鎌倉時代の正治元年(1199年)、重源による東大寺復興の際に、礼堂を建て替えて奈良時代の正堂と繋ぎ合わせました。礼堂は貫を用いた大仏様の様式がみられます。


東大寺 法華堂

 

法華堂北面。

奈良時代に建造された正堂部分が見えています。

現在、正堂内部には、本尊の不空羂索菩薩像(国宝/奈良時代)、梵天立像(国宝/奈良時代)、帝釈天立像(国宝/奈良時代)、金剛力士像(国宝/奈良時代)2体、四天王立像(国宝/奈良時代)4体、執金剛神立像(国宝/奈良時代)の10体の乾漆像が並んでいます。

現在は東大寺ミュージアムに安置されている日光・月光菩薩像(国宝/奈良時代)、吉祥天・弁財天像(重要文化財/奈良時代)、地蔵菩薩像(重要文化財・鎌倉時代)、不動明王像(重要文化財/鎌倉時代)の6体も、東大寺ミュージアムが開設される2011年以前には、法華堂に安置されていました。

平成23年8月より平成25年5月まで仏像が乗っていた奈良時代の八角須弥壇の解体修理のため拝観を停止。須弥壇及び仏像の修理と調査が行われました。八角須弥壇は八角形の板が上段・下段に合わさった形態で、平成8年以降の調査で下段に仏像七体分の台座があることが発見されていました。平成23年10月、台座上段に一体、下段に七体分の台座があり、台座の大きさなどから、奈良時代に羂索堂ができた当初には上段に本尊・不空羂索菩薩像、下段の七つの台座にはそれぞれ日光・月光菩薩像、四天王像、背後に執金剛神立像の7体が配置されていたと考えられることが分かったそうです。当初安置されていた四天王像は現在の法華堂内にあるものではなく、現在は東大寺戒壇院に安置されている四天王像であった可能性が高いとされています。


東大寺 法華堂

 

北門。

鎌倉時代の建造物で、重要文化財。

東大寺 法華堂

 

経蔵。

校倉造。

奈良時代の建造物で、重要文化財。

もとは、東大寺食堂跡の北東にあった油倉(燈油を貯蔵する倉)の一つでしたが、江戸時代の正徳4年(1714年)、現在地に移されました。

 

 

 

東大寺;奈良市雑司町406-1