奈良にある般若寺です。

般若寺

 

法性山般若寺という真言律宗の寺。

寺伝によれば、飛鳥時代、高句麗僧・慧灌によって開かれ、聖武天皇が大般若経を収めて伽藍を整えたとしますが、不詳。

治承4年(1180年)、以仁王の挙兵に応じた南都は平家に反旗を翻し、般若寺に興福寺僧兵らがたてこもって主戦場の一部となったため焼失、荒廃。鎌倉時代、西大寺の僧・叡尊とその弟子・忍性が復興。永禄10年(1567年)、松永久秀と三好三人衆の争いである東大寺合戦でも焼失。江戸時代に再興するも廃仏毀釈によって荒廃。無住職の時期もありましたが、現在は復興しています。

30年程前より境内にコスモスが植えられ、コスモス寺の別名があります。

関西花の寺二十五霊場17番札所。西国薬師四十九霊場3番札所。


般若寺
 

楼門。

鎌倉時代の建造物で、国宝。


般若寺

 

本堂。

寛文7年(1667年)の建造物。

重要文化財の本尊・文殊菩薩像を安置します。


般若寺

 

十三重石塔。

建長5年(1253年)の建造物で、重要文化財。

南宋出身の石工・伊行末の製作によるもの。


般若寺
 

経蔵。

鎌倉時代の建造物で、重要文化財。

般若寺

 

鐘楼。

元禄7年の建造物。


般若寺

 

江戸時代、元禄期の石仏。

以前は十三重石塔の周囲に並んでいましたが、昭和の周囲の際に本堂の周囲に移したとのこと。


般若寺

 

大塔宮護良親王供養塔。

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕を掲げて元弘の変を起こすと、その第三皇子で比叡山延暦寺天台座主であった護良親王は自ら還俗してこれに参加。鎌倉幕府に追われるところとなり、笠置から吉野へ逃れる途中、般若寺の唐櫃に隠れて鎌倉幕府の追っ手を逃れたという伝承から、供養塔が作られています。


般若寺

 

藤原頼長卿供養塔。

藤原頼長(1120~1156)は平安時代末期の公卿。関白藤原忠実の次男。母は藤原盛実女。天治2年(1125年)、23歳年上の異母兄関白藤原忠通に男子がなかったため養子となります。大治5年(1130年)、元服。天承2年(1132年)、権中納言、長承3年(1134年)、権大納言。保延2年(1136年)、内大臣。康治2年(1143年)、47歳の忠通は側室との間に男子を儲け、頼長を疎んじるようになります。久安5年(1149年)、左大臣。久安7年、近衛天皇元服。頼長が正室徳大寺幸子の姪・多子を養女にして近衛天皇の皇后とすると、忠通も正室藤原宗子の姪・呈子を養女として近衛天皇の中宮とし対立。忠実は頼長に摂関家に伝わる朱器台盤と藤氏氏長者の座を譲り、忠通を義絶しました。保元元年(1156年)、崇徳上皇と後白河天皇の間で保元の乱が勃発。頼長は崇徳上皇側につき、後白河天皇側についた忠通に敗れます。頼長は宇治に隠棲していた父忠実のもとへ逃れますが忠実は閉門して頼長を見捨て、更に南都に逃れるも、流れ矢に当たって絶命したとも、舌を噛み切って自害したとも伝えられます。頼長の遺体は般若寺に葬られましたが墓を造ることを憚り、後にこの供養塔が造られたといいます。

般若寺
般若寺
 

境内のコスモス。

 

 

 

般若寺;奈良市般若寺町221