姫路にある姫路城です。


姫路城
 

姫路城は姫山と鷺山に築かれた城。

本丸二の丸三の丸は姫山に築かれ、姫路藩初代藩主・池田輝政によってほぼ現在の形が完成。西の丸は姫山の西隣にある鷺山に、これらに後れて姫路藩4代藩主・本多忠政によって築かれました。

大坂の役で豊臣宗家が滅ぶと外様大名の池田氏は転封となり、元和3年(1617年)、譜代大名の本多忠政が伊勢桑名藩より転封されて姫路藩4代藩主となります。元和6年、忠政は鷺山に西の丸を増設。世子の忠刻と千姫(江戸幕府2代将軍徳川秀忠の長女)夫妻を住まわせました。

かつて西の丸にあった御殿は現存していませんが、当時の櫓や渡櫓が現存しています。

姫路城

 

西の丸にかつてあった御殿は現存せず、現在は植木などが整備されています。

 

姫路城

 

西の丸の外郭には、鷺山の地形に合わせて折れ曲がった形で、防御のための櫓と渡櫓が築かれています。この渡櫓の内部には百間廊下と呼ばれる通路が通されて奥女中たちが住む小部屋が作られ、西の丸長局と呼ばれました。

 

姫路城

 

カの櫓。

重要文化財。

 


姫路城

 

ルの櫓。

重要文化財。


姫路城

 

百間廊下。

西の丸長局を結ぶ廊下。


姫路城

 

西の丸長局の奥女中たちの部屋。

百間廊下に面してたくさんの小部屋があります。


姫路城

 

百間廊下から見た男山。

姫路城の北西に位置する男山には、千姫が創建した男山千姫八幡宮があります。千姫は、男山が見渡せるこの西の丸百間廊下より毎朝男山に向かって拝んでいたと言います。百間廊下の北突き当りに位置する化粧櫓は、その際の千姫の休息所であったといいます。

姫路城

 

化粧櫓。

重要文化財。

百間廊下の北突き当りに位置する櫓。

千姫は、本多家の扶持とは別に、徳川家より化粧料10万石を受けていました。元和4年、千姫の化粧料で建てられたためにこの名があるといいます。


姫路城

 

化粧櫓の内部。

千姫と勝姫の人形が飾られています。

徳川千姫(1597~1666)は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の長女。母は浅井江。慶長8年(1603年)、7歳で10歳の豊臣秀頼と結婚、大坂城に入ります。慶長20年、大坂夏の陣において秀頼は千姫の祖父家康、父秀忠に攻められ自刃。千姫は大坂城から脱出、19歳で未亡人となります。元和2年(1616年)、秀頼の死から一年後、伊勢桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と再婚、桑名城に入ります。元和4年、舅の忠政が播磨姫路藩主に転封されたため夫と共に同行、姫路城に入ります。このとき鷺山に西の丸が増設され、千姫は姫路城西の丸にあった中書丸や、三の丸にあった武蔵野御殿などに住みます。元和4年、勝姫を出産。元和5年、幸千代を出産。元和7年、幸千代が早世。将軍息女を正室とした夫忠刻は生涯側室を持たず、寛永3年(1626年)、31歳で没。忠刻の弟政朝が本多家世子となります。千姫は30歳で再び未亡人となり、娘の勝姫と共に姫路城を出て徳川家に戻り、江戸城竹橋御殿に住みます。同年、出家。天樹院と号します。寛文6年(1666年)、70歳で没するまで江戸に住みました。

本多勝姫(1518~1578)は本多忠刻の長女。母は徳川千姫。元和9年、外祖父の江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の養女となり、6歳のときに15歳の鳥取藩3代藩主・池田光政と婚約。寛永3年、父忠刻死去。母千姫とともに姫路城を出て江戸城に住みます。寛永5年、11歳で江戸城から江戸の池田家上屋敷に輿入れ、20歳の池田光政と結婚。寛永9年、夫の光政が岡山藩主に転封。寛永11年、奈阿姫(本多忠平室)出産。寛永13年、通姫(一条教輔室。輝子と改名)出産。寛永15年、綱政出産。寛永17年、富幾(榊原政房室)出産。正保4年(1644年)、左阿(中川久恒室)出産。延宝6年(1578年)、死去。

 

 

 

姫路城;兵庫県姫路市本町68