姫路にある姫路城です。


姫路城
 

姫路城は、姫山と鷺山に築かれた城。白鷺城の別名があります。

姫山には南北朝時代に赤松氏の砦が築かれ、戦国期に黒田氏の居館を経て、織田信長から中国攻めを命じられた羽柴秀吉によって大規模な城構えを持つ城となります。秀吉が天下人となって大坂城に移った後は、豊臣秀長(秀吉弟)、木下家定(秀吉正室・北政所兄)といった秀吉の身内が城主となりました。

関ケ原後は姫路藩が置かれ、初代姫路藩主・池田輝政(徳川家康の次女督姫の継夫)が入城。輝政によって姫山に本丸、二の丸三の丸が築かれました。

姫路城本丸は、標高約45.6メートルの姫山の山頂に位置、天守のある天守丸、その南の備前丸があり、周囲には北西に水曲輪、北に北曲輪、北西に北西曲輪と高低差のある曲輪を設けて、天守を防衛します。

現在の天守は慶長14年(1609年)に輝政が完成させたものですが、それ以前には天正9年(1581年)に秀吉が建造した天守が同じ場所にありました。昭和の大修理の際に天守台の基礎が調査され、現在の天守台の内部にもう一つ天守台が埋め込まれており、秀吉時代の三層四階天守の天守台の周囲を石垣で固めて拡張し、その上に輝政時代の連立式天守の天守台を造ったことが分かったそうです。また、現在の天守に秀吉時代の天守を解体した際の木材の転用があるそうです。

備前丸は天守の南側にあり、かつて、輝政の居館が置かれていました。現在備前丸に建物は残っておらず、広場になっています。


姫路城

 

天守。

大天守を中心に、乾小天守、東小天守、西小天守の3つの小天守が渡櫓で繋がれた連立式天守。中央奥が大天守、手前向かって左から東小天守、乾小天守、西小天守。

姫路城にある8棟の国宝はすべてこの天守にあります。大天守、東小天守、乾小天守、西小天守、イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓、二の渡櫓の8棟が国宝。

平成21年(2009年)10月より破損した木材を交換し、漆喰を塗り直した約5年半に及ぶ平成の大修理を終え、平成28年3月27日以降再公開された姿。


姫路城
 

大天守。

慶長14年、池田輝政の築造によるもので、国宝。

五重六階地下一階。

 

姫路城
 

西小天守。

大天守と同時期、慶長14年完成、国宝。

三重三階地下二階。

大天守の南西に位置し、未申櫓の名があります。

 

姫路城

 

乾小天守。

慶長14年完成、国宝。

三重四階地下一階。

大天守の北西に位置し、乾櫓の名があります。

 

姫路城

 

東小天守。
慶長14年完成、国宝。

三重三階地下一階。

大天守の北東に位置し、丑寅櫓の名があります。


姫路城

 

天守を南側から見た画像。

右が大天守、左が西小天守。

大天守と西小天守を繋いでいるのが国宝・二の渡櫓。


姫路城

 

天守を南西から見た画像。

手前左が乾小天守、手前右が西小天守。

乾小天守と西小天守を繋いでいるのが国宝・ハの渡櫓。


姫路城

 

大天守最上階から南側を見た画像。

一番手前が備前丸。

天守丸の南側は備前丸と呼ばれ、池田輝政の居館が置かれていました。備前丸の名は備前岡山藩主・池田忠継(池田輝政の次男)が幼少期にここで育ったことから。

その奥が二の丸、その奥が三の丸。本丸が姫山の最も高い位置にあり、二の丸、三の丸と低い場所に造られています。


姫路城
 

大天守の瓦。

瓦の接続面を漆喰で塗り固めています。

姫路城が白く見えるのは漆喰を塗っているため。

平成の大修理後の姿で、ここまで漆喰の白さが残っているのはあと2、3年ということです。

姫路城
 

本丸の石垣(下段に当たる二の丸から撮影)。

池田輝政時代のもので、全体は算木積み(自然石を段状に積む)、端は打ち込み接(石の表面を叩いて加工)。敵のよじ登りを防ぐ扇の勾配と呼ばれる緩やかなカーブを描いています。

 
 

 

姫路城;兵庫県姫路市本町68