大原にある大原陵です。


大原陵
 

後鳥羽天皇と順徳天皇の陵。

承久3年(1221年)、承久の乱で敗れた後鳥羽上皇は隠岐国へ、順徳上皇は讃岐国へ配流となります。延応元年(1239年)、後鳥羽法皇が配流先の隠岐国で崩じると、遺骨の一部は都に持ち帰られ、大原法華堂に納められます。仁治3年(1242年)、順徳上皇もまた配流先の佐渡国で崩じ、遺骨の一部が都にもたらされ大原に納められました。大原法華堂であった可能性が高いそうです。

大原法華堂はその後荒廃し、当初より西に場所を移して江戸時代に再建されました。

明治時代、宮内省によって歴代天皇の陵墓比定が行われます。その際、大原法華堂の旧地とされる現在地に後鳥羽天皇・順徳天皇の陵墓として大原陵が整備されました。

大原陵

 

「後鳥羽天皇 大原陵」

「順徳天皇 大原陵」

宮内庁設置の看板。


大原陵
大原陵

 

向かって右手が後鳥羽天皇陵、左手が順徳天皇陵。

後鳥羽天皇(1180~1239)は第82代天皇。高倉天皇の第四皇子。母は藤原殖子(七条院)。諱は尊成。異母兄・安徳天皇が平家に連れられ都落ちした後、元暦元年(1184年)、祖父・後白河法皇の院宣により5歳で即位。建久9年(1198年)、土御門天皇に譲位して20歳で上皇となり、院政を開始。承元4年(1210年)、土御門天皇を退位させ、その異母弟・順徳天皇を即位させます。建保7年(1219年)、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺され源氏将軍が3代で絶えたのを機に、承久3年(1221年)、北条義時追討令の院宣を発令。幕府軍に敗れ出家するものの許されず、隠岐へ流されました(承久の乱)。延応元年(1239年)、隠岐国にて60歳で崩。

順徳天皇(1197~1242)は第84代天皇。後鳥羽天皇の第三皇子。母は高倉重子(承明門院)。諱は守成。正治2年(1200年)、異母兄・土御門天皇の皇太弟。承元4年(1210年)、父後鳥羽上皇の意向で土御門天皇が17歳で退位させられ、14歳で即位。後鳥羽上皇が院政を執ります。承久3年、後鳥羽上皇の討幕に協力するため、仲恭天皇に譲位。同年、承久の乱に敗れ、佐渡国へ流されました。仁治3年(1242年)、佐渡国において46歳で崩。

 

 

 

大原陵;京都市左京区大原勝林院町