紫野にある総見院です。
大徳寺の塔頭。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において織田信長が明智光秀に攻められ自害。同13日、山崎の戦いで明智光秀に勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、同10月10日、大徳寺で織田信長の葬儀を盛大に開催しました。
こちらは、翌天正11年、秀吉が信長の一周忌に間に合うように、大徳寺117世・蒲庵古渓を開山に迎え、信長の菩提寺として創建したもの。総見院の名は織田信長の法号の一つ、総見院殿贈大相国一品泰巌大居士から取られました。信長の遺骨は見つからなかったため、秀吉は信長の木像を2体造らせ、うち一体は信長の葬儀で荼毘に付し、残る一体は総見院に安置しました(現存。重要文化財。本堂に安置されていますが本堂内は撮影禁止)。
江戸時代には200石の寺院でしたが、明治初期の廃仏毀釈で堂宇を打ち壊されて廃寺となり、信長木像は大徳寺に避難。その後は大徳寺の修行道場となっていましたが、大正時代に復興。昭和36年、大徳寺から信長木像が戻されました。
総見院は通常非公開。こちらは平成25年秋の特別公開で公開されたときのもの。
参道。
本堂。
重要文化財の木造織田信長像はここに安置されています。
鐘楼。
天正11年、創建当時のもので、信長・秀吉に仕えた武将・堀秀政の寄進によるもの。
重要文化財。
堀り抜き井戸。
加藤清正が朝鮮から持ち帰った朝鮮石で造られたもの。
3つの茶室に繋がる廻廊の途中、頭上に置かれている輿。
明治初期、廃仏毀釈のために大徳寺に避難していた木造織田信長像が、昭和36年、総見院に戻されるときに像を乗せて運んだ輿。
龐庵。
茶室。
香雲軒。
茶室。
寿安席。
織田信長とその一族の墓。
墓地の北側に西から順に秀雄、信雄、信長、信忠、秀勝、信高、信好の順で並び、西側に養華院墓があります。

織田信長の墓。
織田信忠の墓。
信忠は信長の嫡男で、本能寺の変で二条御所において自害しています。
羽柴秀勝の墓。
羽柴秀勝は織田信長の四男。羽柴秀吉の養子となり、大徳寺において秀吉主催で行われた信長葬儀にも出席、喪主を勤めました。
織田信高の墓。
織田信好の墓。
信好は織田信長の十男。
織田信雄の墓。
織田秀雄の墓。
秀雄は織田信雄の嫡男。信長の孫に当たります。
養華院の墓。
総見院所蔵の「泰巌相公縁会名簿」に「養華院要津妙玄大姉 信長公御寵妾也 慶長十七年七月九日」と記される女性の墓。
信長の正室斎藤氏(濃姫)ではないかという説が出て、没年不詳の濃姫が慶長17年まで生きていた根拠ともされましたが、正室を寵妾と記す記述の違和感もあり、不詳。
隣に寺が信長の側室お鍋(興雲院)墓とする石が置かれてあります。お鍋と養華院の没年が全く同じで10日ほどの差であること、大徳寺で行われた信長葬儀に信長の妻妾の中で唯一お鍋が参加しており縁が深いことなどから、養華院とはお鍋である説があります。
総見院;京都市北区紫野大徳寺町59

















