大和郡山にある柳澤神社です。


古都の礎-柳澤神社

 

明治13年、旧大和郡山藩士らが中心となり、柳沢吉保を祭神として創建されました。鳥居は竹林橋跡に建ち、社殿は大和郡山城本丸天守曲輪跡にあります。


古都の礎-柳澤神社
古都の礎-柳澤神社

 

拝殿。

古都の礎-柳澤神社

 

本殿。

祭神は柳沢吉保。

柳沢吉保(1658~1714)は江戸時代中期の側用人・譜代大名。館林藩士柳沢安忠の子。館林藩主・松平綱吉に出仕。延宝8年(1680年)、江戸幕府4代将軍徳川家綱が重体となるも継嗣なく、異母弟の綱吉が養子として5代将軍徳川綱吉となると、吉保は綱吉に同行して旗本に取り立てられます。元禄元年(1688年)、将軍と老中の取次役として新設された側用人に就任。同年、綱吉から佐貫藩主1万5千石が与えられ、譜代大名となります。元禄7年、川越藩主7万2千石に転封。宝永元年(1704年)、綱吉が甥の甲府藩主徳川綱豊(後の家宣)を後継に定めて養子にすると、吉保は甲府藩主15万石に転封されました。宝永6年、将軍徳川綱吉が死去。6代将軍徳川家宣は間部詮房・新井白石を登用して幕政改革を決行。綱吉時代の政治は非難の対象となり、吉保は役職を辞し、甲府藩主を長男吉里に譲って隠居。正徳4年(1714年)、57歳で没しました。

享保9年(1724年)、8代将軍徳川吉宗の享保の改革により甲府が幕府直轄地とされたことから、柳沢吉里は大和郡山藩主に転封され、大和郡山城に入城。以降、幕末まで柳沢家が大和郡山藩主を勤めました。

 

 

 

柳澤神社;奈良県大和郡山市城内町2-18