宇治にある平等院です。


古都の礎-平等院

 

朝日山平等院という寺。

平安時代初期、左大臣源融(嵯峨天皇皇子)がこの地に別荘を営みます。この別荘は宇多上皇の所有を経て左大臣源重信(宇多天皇孫)の所有となり、源重信未亡人から藤原道長が入手。頼通の所有となりました。

永承7年(1052年)、関白藤原頼通は、宇治殿、或いは宇治別業と呼ばれていたこの別荘を寺に改めます。開山には天台宗園城寺円満院の明尊が迎えられ、平等院の名は園城寺塔頭よりつけられます。当初は大日如来像を本尊とする天台宗の寺でした。天喜元年(1053年)、阿弥陀堂が完成。天喜4年、法華堂が完成。康平4年(1061年)、藤原寛子(頼通次女・後冷泉天皇皇后)が多宝塔を寄進。治暦2年(1066年)、右大臣藤原師実(頼通六男)が五大堂を寄進。治暦4年、藤原頼通は77歳で関白を辞してこの地に隠居、延久4年(1072年)、出家。延久5年、源師房(頼通養子)が不動堂を寄進。当時の平等院は宇治川を東端とし、多くの堂宇が建ち並ぶ大寺院でした。延久6年、頼通はこの地において83歳で没します。

治承の乱では源頼政が平等院で自刃。鎌倉時代初期までに創建当時の本堂が焼失。建武3年(1336年)、足利尊氏との抗争で楠木正成が宇治に放火、平等院は阿弥陀堂を残してほぼ全焼、荒廃しました。

室町時代、平等院住持は天台宗園城寺円満院門主の兼務となりますが、天正10年(1582年)、この伝統が断絶。平等院境内に浄土宗の塔頭・浄土院ができ、浄土宗僧侶が平等院住持を勤めるようになります。江戸時代中期、天台宗の塔頭・最勝院が建てられ再び円満院による住持兼務が復活しますが、浄土院と対立。江戸幕府寺社奉行の裁定により平等院は天台宗・浄土宗両派によって維持されることに定まり、平等院自体は独立した一院とされました。この伝統が現在まで続いています。

何度も戦乱にあい、堂宇を失い境内も縮小されたものの、頼通時代の阿弥陀堂(現在の鳳凰堂)が今も現存。平成6年(1994年)、「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されています。

古都の礎-平等院

 

鳳凰堂。

天喜元年(1053年)の建造物で、国宝。

阿弥陀堂とも呼ばれ、平安時代、定朝の作で国宝の阿弥陀如来像を安置しています。こちらの阿弥陀如来像は現在の平等院の本尊。

鳳凰堂の名は屋根の上の一対の鳳凰の像から、江戸時代頃から呼ばれ始めました。現在、実物は鳳翔館(ミュージアム)に展示されており、屋根の上に乗っているものはレプリカ。


古都の礎-平等院

 

鳳凰堂の前には浄土式庭園と呼ばれる極楽浄土を再現した平安時代の庭園が広がっています。発掘調査により、創建当時は州浜が敷かれていたことが分かり、再現されています。

古都の礎-平等院

 

観音堂。

鎌倉時代初期の建造物で、重要文化財。

創建当初の平等院本堂が焼失後、その跡地に建てられたという伝承があります。


古都の礎-平等院

 

南門。

伏見城薬医門を移築したもの。


古都の礎-平等院

 

鐘楼。


古都の礎-平等院

 

梵鐘。

実物は国宝で鳳翔館(ミュージアム)に展示されています。

こちらは同寸で復元されたもの。


古都の礎-平等院

 

鳳翔館。

平等院内にあるミュージアム。


古都の礎-平等院

 

多宝塔跡。

現在の平等院境内外南西にあります。

頼通が創建した時代の平等院には多数の建造物があった記録がありますが、それらの多くは現在まで残らず、どの位置にどのような形態のものがあったかも不明になっています。こちらは発掘調査によって明らかとなった多宝塔の跡。文献から、この多宝塔を寄進したのは頼通の次女藤原寛子(後冷泉天皇皇后)であることが分かっています。基壇の跡が復元されています。

 

 

 

平等院;京都府宇治市宇治蓮華116