小浜にある常高寺です。


古都の礎-常高寺

 

凌霄山常高寺という臨済宗の寺。

寛永7年(1630年)、小浜藩初代藩主京極高次の正室、常高院(初)が槐堂周虎を開山に迎えて創建しました。常高寺の名は常高院の法名より取られました。

寛永11年、京極家は松江藩に転封となりましたが、寛永13年、常高院が京極家の江戸藩邸で没すると、亡き夫京極高次と暮らした若狭の地に葬られることを望んだ常高院の遺言により、後瀬山城山麓のこの寺に葬られました。

明治時代に入ると荒廃、無住職の時期もありましたが、平成2年より復興されています。


古都の礎-常高寺

 

本堂。

平成13年完成。


古都の礎-常高寺

古都の礎-常高寺

 

常高院墓。
常高院(1570~1633)は小浜藩初代藩主・京極高次の正室。北近江の戦国大名浅井長政の次女。母は織田市(織田信長妹)。浅井三姉妹の次女。名は初。天正元年(1573年)、父長政が叔父信長に滅ぼされ滅亡。天正11年、母の再婚相手であった柴田勝家も羽柴秀吉に滅ぼされ、母市が自刃。初は2度の落城を姉妹と共に生き延び、天正15年、従兄の大溝城主京極高次と結婚。高次は秀吉から、天正18年、近江八幡城2万8000石、文禄4年(1595年)、近江大津城6万石を与えられますが、妻の初や姉の京極竜子(秀吉側室)の七光りで出世した蛍大名と呼ばれました。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで当初西軍であった高次は東軍に寝返り大津城を死守。関ヶ原後は石田三成と徳川家康の対面に大津城を提供、家康より若狭8万5000石を与えられて初代小浜藩主となり、初もともに後瀬山城に入ります。慶長14年、高次没。出家、常高院。姉淀殿の嫁ぎ先である豊臣家と妹江の嫁ぎ先である徳川家が対立関係となると、両者の和議に奔走。慶長19年、大坂冬の陣においては大坂城に入り、豊臣方代表として徳川方代表阿茶局との間に和議を結びます。慶長20年、再び豊臣家と徳川家の間で大坂夏の陣が勃発。このときも常高院は大坂城に入り和議に奔走しますが、秀頼と淀殿は自刃、豊臣家は滅亡。その後は京極家江戸藩邸に住み、将軍御台所となった妹江ともよく会っていたと言います。寛永10年(1633年)、京極家江戸藩邸において63歳で没。


 


常高寺;福井県小浜市浅間1