嵯峨野にある清凉寺です。
天台山清凉寺という浄土宗の寺。
平安時代初期、左大臣源融が父嵯峨天皇の離宮嵯峨殿の一角に土地を賜り、栖霞観という別荘を営みます。融は生前、この別荘内に寺の建立を発願しますが果たせず、融の子、源昇が寺に改め棲霞寺としました。天慶8年(945年)、藤原寛子(重明親王妃・左大臣藤原時平女)が棲霞寺に釈迦如来像を安置した御堂を建設。ここから嵯峨釈迦堂と呼ばれるようになったといいます。
永延元年(987年)、宋帰りの僧、奝然は持ち帰った釈迦如来像を安置して棲霞寺境内に天台山清凉寺を創建。清凉寺はこの時に始まったとされ奝然を開山としています。当初は華厳宗の寺でした。
室町時代の享禄3年(1530年)、円誉が清凉寺に入り、浄土宗に改められます。豊臣秀頼の堂宇寄進がありましたが大火で焼失。その後、桂昌院(江戸幕府5代将軍徳川綱吉母)が堂宇を寄進しています。
京都十三仏霊場22番札所。
本堂。
現在のものは江戸時代の元禄14年(1701年)、桂昌院の発願で堺の商人泉屋吉右衛門に協力させ寄進したもの。
奝然が宋より持ち帰った国宝の本尊、釈迦如来像を安置。本尊の内部からは、絹製の五臓六腑、経典などが発見されています。
阿弥陀堂。
文久3年(1863年)の建造物。
一切経堂。
一切経を納める堂。
本堂と大方丈をつなぐ渡り廊下。
大方丈。
江戸時代、享保年間の建造物。
大方丈の庭。
小掘遠州の作という伝承があります。
弁天堂。
多宝塔。
元禄13年の建造物。
鐘楼。
梵鐘には室町時代、文明16年(1484年)11月吉日の銘があり、寄進者に足利義政、日野富子、征夷大将軍足利義尚と堺の商人の名があります。
源融の墓。
源融は(822~895)は嵯峨天皇の第十二皇子。母は大原全子。源姓を受けて臣籍降下。承和元年(838年)、15歳で元服。貞観6年(864年)、中納言。貞観12年、大納言。貞観14年(872年)、左大臣にまでのぼり首班となります。天安2年(858年)、清和天皇が即位すると、下位であった右大臣藤原良房が清和天皇の外祖父として摂政を称し執政者の座についたため、蟄居。「大鏡」によれば陽成天皇が退位した際には「融らもはべらるは」と即位の野望を見せたと伝えられます。六条に河原院という大豪邸を築き、嵯峨野に別邸栖霞観を営みました。
天皇の皇子として生まれるも臣籍降下して源氏になったこと、政治首班となったこと、河原院の位置が六条院と重なることなどから、「源氏物語」の主人公光源氏の主要モデルの一人とされています。光源氏が晩年に建てた大覚寺の南にあるという「嵯峨御堂」はここ清涼寺をモデルにしていると言われます。
秀頼公首塚。
昭和55年、大坂城三の丸跡地から頭部の遺骨が発掘されます。首に介錯の跡があることから大坂夏の陣で自害した豊臣秀頼の首とされてここ清凉寺に葬られました。しかし、これが秀頼の首であるかどうかは疑問視されています。
境内の枝垂桜。
清凉寺;京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46













