寺町通広小路上るにある梨木神社です。


古都の礎-梨木神社

 

現地は、江戸時代に公家の三条家邸があった場所。京都御苑に隣接しています。

明治2年、明治天皇は、安政の大獄により蟄居を余儀なくされ不遇のうちに没した三条実萬に対して、忠臣として忠成公の号を贈ります。明治18年、三条家邸宅跡である現地に三条実萬を祭神とする梨木神社が創建されました。社名の梨木とは現地の当時の地名梨木町から採ったもので、三条実美の号梨堂もここからきています。

大正4年、京都御所において大正天皇即位の礼が行われると、同年、京都御所温存を明治天皇に進言した功績により三条実美が合祀されています。


古都の礎-梨木神社

 

神門。

 

古都の礎-梨木神社

舞殿。

古都の礎-梨木神社

 

拝殿。


古都の礎-梨木神社

 

本殿。

祭神は三条実萬と三条実美。

三条実萬(1802~1859)は幕末の公家。内大臣三条公修の子。母は一条和子(関白一条輝良女)。文政3年(1820年)、権中納言。文政7年、権大納言。安政4年(1858年)、内大臣。安政5年、幕府が孝明天皇に勅許を求めた日米修好通商条約の締結に反対。開国派の関白九条尚忠と対立して参内を止められるも、孝明天皇の命により復帰。安政6年4月、大老井伊直弼による弾圧事件、安政の大獄によって辞官蟄居を命じられ出家。澹空と号して洛北一乗寺村に蟄居。同10月、蟄居先において58歳で急死。

三条実美(1837~1891)は幕末・明治の政治家。内大臣三条実萬の三男。母は山内紀子(土佐藩主山内豊策女)。号は梨堂。文久2年(1862年)、権中納言。文久3年、尊王攘夷派が公武合体派に追われた八月十八日の政変により都落ち。3年間諸国を転々とします。王政復古の大号令により復帰、明治新政府の議定。慶応4年(1868年)2月、権大納言。同5月、右大臣。明治4年(1871年)、太政大臣(太政官制最後の太政大臣)。明治17年、公爵。明治18年、内閣制度により内大臣。明治22年、黒田清隆が総理大臣を急遽辞任すると、明治天皇の命により、山県有朋が内閣総理大臣となるまでの61日間、内大臣のまま内閣総理大臣を兼任(歴代総理大臣には数えられていない)。明治24年2月17日、インフルエンザで病床にある実美のもとを明治天皇が見舞い、正一位に叙します。同18日、55歳で死去。


古都の礎-梨木神社

 

境内に湧く染井の水。

かつて京都三名水と言われた染井、縣井、左女牛井の一つ。染井の名は織物業者がこの水で染色したことに由来すると言われます。三名水のうち縣井、左女牛井が枯れているのに対して、染井は今も飲料できる地下水で、水を汲みに来る人が絶えません。平安時代初期、ここに摂政藤原良房の邸宅があり、この井にちなんで染殿と呼ばれていました。

 

 

 

梨木神社;京都市上京区寺町通広小路上る染殿町680