今出川通寺町にある二条家邸跡です。
二条家は鎌倉期以降摂政・関白につくことができた五摂家(近衛・鷹司・九条・一条・二条)の一つ。創設期の鎌倉時代初期に二条富小路に屋敷を構えたため、二条が家名となりました。室町時代に二条押小路に移転。戦国時代に二条家邸を気に入った織田信長に屋敷を譲って信長は二条御所を築き、二条家は一条高倉の報恩寺跡地に移転していました。
安土桃山時代、豊臣秀吉の都市改造により、公家たちは内裏の周辺に集住することが決められ、周囲に築地を巡らせた公家町が形成されます。二条家は当初、内裏の南側に邸を構えましたが、寛文3年(1663年)、後西天皇の譲位に際して院御所建設のための敷地が築地内に見つからなかったため、内裏南にあった二条家が築地の外側である公家町北の現在地に移転となり、跡地に後西院御所が建設されました。以降、幕末までこの地に二条家邸が存在しました。
明治2年(1869年)、明治天皇が東下、二条家も同行して東京へ移転します。明治10年、京都へ行幸した明治天皇がかつての公家屋敷の荒廃を見て整備を命じ、荒廃した公家屋敷が取り壊されて京都御苑が作られます。二条家跡地は築地外にあったためこのとき整備された京都御苑には含まれず、幕末の邸宅跡地は一般地となりました。
平成19年、同志社女子大今出川キャンパス内で校舎建設のために行われた常盤井殿遺跡発掘調査により、江戸期の二条家邸跡の遺構を確認。建物跡、蔵跡、庭園跡が確認されたほか、家紋が入った大量の瓦や食器類が発掘されました。現在、門前に碑が建てられています。
発掘された礎石。
現在、二条家邸跡は同志社女子大学今出川キャンパスになっています。今出川通に面した東門前に説明文と礎石が展示されています。
二条家邸跡;京都市上京区今出川通寺町西入

