堀川寺之内にある宝鏡寺です。


古都の礎-宝鏡寺

 

西山宝鏡寺という臨済宗の寺。

室町時代、尼五山第一位・西山景愛寺の第6世華林恵巌(光厳天皇皇女と伝えられる)が伊勢の二見浦から引き揚げられたという聖観世音菩薩像を景愛寺塔頭の建福尼寺に安置したのが始まりと伝えられます。本尊聖観世菩薩像が宝鏡を持った姿であるため寺名は宝鏡寺と改められました。景愛寺は応仁の乱によって荒廃、廃寺となったため、宝鏡寺が法灯を伝えました。

江戸時代初期、後水尾天皇の第五皇女久巌理昌(八重宮)が入寺、宮中より紫衣を賜って以降、幕末まで代々皇女たちが住職を勤める尼門跡寺院であり、百々御所の名があります。歴代門跡たちの遺愛の品や宮中からの下賜品などの寺宝を有します。

宝鏡寺は通常非公開。毎年、春と秋の年2回、それぞれ約1か月程度、公開されます。

古都の礎-宝鏡寺

 

宝鏡寺南側の築地。

築地に設けられた格子は、自由に出歩けない皇女たちが中から通りを往来する人々を眺めるためのものとも。


古都の礎-宝鏡寺

 

人形塚。

宝鏡寺は歴代門跡遺愛の人形を多数所有し、人形の寺と呼ばれます。

人形には魂が宿っているとも言われ、宝鏡寺では不要となった人形の供養を受け付けており、年に一回この塚の前で人形供養祭が行われます。

人形塚の下に書かれてある碑文は文豪武者小路実篤によるもの。

「人形よ 誰がつくりしか 誰に愛されしか 知らねども

              愛された事実こそ 汝が成仏の誠なれ  実篤」


古都の礎-宝鏡寺

 

天日干し。

こちらは宝鏡寺門前に店を構える江戸時代創業の和傘屋、日吉屋さんの和傘。宝鏡寺境内で傘の天日干しを行うことを許されているそうです。


古都の礎-宝鏡寺
古都の礎-宝鏡寺

古都の礎-宝鏡寺

 

宝鏡寺の建物内部で撮影可能なのは玄関を入ってすぐのこの使者の間のみ。

これより奥は庭も含めて撮影禁止です。

和宮を人形で表現。和宮は宝鏡寺に滞在していたことがあり、今年は和宮御降嫁150周年にあたることから和宮御下賜の天目茶碗など和宮に関する展示があります。

和宮親子内親王(1846~1877)は江戸幕府14代将軍徳川家茂の御台所。仁孝天皇の第八皇女。母は典侍・橋本経子。父仁孝天皇没後の出生であったため、異母兄孝明天皇の命により母方の橋本家で養育されます。嘉永4年(1851年)、有栖川宮熾仁親王と婚約。安政4年(1857年)、外祖父権大納言橋本実久が没、このとき約5ヵ月間宝鏡寺に滞在。安政5年、幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことに孝明天皇は激怒。同年、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されると、幕府は公武合体の名のもと将軍徳川家茂と和宮の結婚を画策。万延元年(1860年)、幕府は朝廷に和宮御降嫁を申し入れ。孝明天皇と和宮は拒否するも、和宮の降嫁と引き換えに幕府から攘夷の確約を得るべしとの攘夷派公家たちの説得に応じ、降嫁が決まります。文久元年(1861年)4月、内親王宣下。同10月、江戸下向。同11月、江戸着。同12月、江戸城大奥入り。文久2年2月11日、婚礼。慶応元年(1865年)5月、家茂上洛、同7月、家茂が大坂城において病没。和宮は出家、静寛院宮となります。同12月、孝明天皇崩。慶応2年、甥の明治天皇のもとで和宮の帰京が進められ、討幕の密勅が下ります。同10月、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が大政奉還。慶応3年、戊辰戦争が勃発。江戸城にいる和宮を徳川方が人質に取るのではないかという噂が流れる中、和宮は徳川家存続に動き、江戸城は無血開城。明治2年、和宮帰京。同年、東京遷都、明治7年、東京移住。明治10年、脚気により33歳で没。

 

 

 

宝鏡寺;京都市上京区寺之内通堀川東入百々町547