敦賀にある金ヶ崎城址です。


古都の礎-金ヶ崎城址

 

敦賀湾に突き出た岬、金ヶ崎に造られた山城。

南北朝時代、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏との戦いの最中、建武3年(1336年)、比叡山に逃れていた後醍醐天皇は、新田義貞に東宮恒良親王と尊良親王を託し北陸へ落とします。義貞は足利軍の追撃をかわしながら越前敦賀に至り、気比神宮神官気比氏治の支援を受けてその金ヶ崎城に入りました。間もなく足利方武将斯波高経・高師泰軍が追いつき、金ヶ崎城を取り囲んで兵糧攻めを行います。建武4年2月5日、新田義貞は援軍を募るため、長男義顕に金ヶ崎城と恒良親王・尊良親王を託し、城を抜けて杣山城主瓜生氏を頼ります。同16日、義貞は瓜生氏と共に金ヶ崎城奪回に向かいますが敗れ、同3月3日、足利軍が金ヶ崎城に攻め込みます。兵糧攻めにより弱っていた新田軍は敗れ、同6日、金ヶ崎城は陥落。尊良親王、新田義顕、気比氏治らは自害。恒良親王は足利方の手に渡り京へ送られました。

新田義貞が討たれると、金ヶ崎城は越前守護となった斯波高経の支城となり、その家臣、守護代甲斐氏の居城となります。応仁の乱により甲斐氏が衰退すると、斯波氏に代わって越前守護となった朝倉氏の支城となり、朝倉氏が一門を派遣した敦賀郡司の居城となり敦賀城と呼ばれました。

元亀元年(1570年)、上洛命令を拒否した朝倉義景を討つため、織田・徳川連合軍が越前に侵攻。朝倉氏の支城であった金ヶ崎城を激しく攻め、敦賀郡司・朝倉恒景は開城。その直後、北近江の戦国大名浅井長政が朝倉氏援護に回り、織田軍の背後をつくべく北へ向かって進軍。信長は命からがら京へ退却しました(金ヶ崎城の戦い)。その5年後、織田信長は再び朝倉氏を攻め、滅亡させています。

本能寺の変後、羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いを制すと、その家臣蜂屋頼経が敦賀城に入城。頼経は九州征討の最中病死、大谷吉継が入城。慶長4年(1600年)、大谷吉継は関ケ原の戦いで西軍として戦い戦死、敦賀城も徳川方に引き渡されました。その後は越前福井藩主・結城秀康によって代官が派遣されていましたが、元和2年(1616年)の一国一城令により廃城となっています。


古都の礎-金ヶ崎城址
古都の礎-金ヶ崎城址

 

二の木戸跡。

南北朝時代の金ヶ崎城には、本丸に至る途中に3つの関所(木戸)が設けられ、敵の侵入を防いでいました。こちらは二の木戸があった場所で、新田義顕が守る金ヶ崎城が足利軍に攻められた建武4年の戦いの際に激戦が行われた場所とされています。


古都の礎-金ヶ崎城址
古都の礎-金ヶ崎城址

 

三の木戸跡。

南北朝時代当時はこの付近から清水が湧き出ていたそうです。


古都の礎-金ヶ崎城址

 

月見御殿址碑。

南北朝時代の金ヶ崎城本丸が置かれていた場所。海抜86メートルの位置にあり、金ヶ崎で最も高い場所に位置しています。現在は一部埋め立てられていますが、当時は三方が日本海に面していました。景勝地であり武将たちが月見をしたと伝えられることから、月見御殿の名があったといいます。


古都の礎-金ヶ崎城址

 

皇太子殿下台臨之跡碑。

かつて金ヶ崎城本丸に恒良親王が滞在したことからこの碑が建てられています。


古都の礎-金ヶ崎城址

 

月見御殿址から臨む日本海。


古都の礎-金ヶ崎城址

 

尊良親王御陵見込地。

月見御殿から南へやや下がったところにある高台の頂上にあります。

金ヶ崎城で自刃した尊良親王の陵墓に比定されています。

 

 

 

金ヶ崎城址;福井県敦賀市金ヶ崎町1-1