福井にある長慶寺です。


古都の礎-長慶寺

 

龍大山長慶寺という浄土真宗の寺。

戦国時代には一向一揆の拠点の一つとなり、織田信長軍と激しく戦いました。越前北ノ庄城を築いた柴田勝家の時代にも浄土真宗は引き続き厳しく取り締まられていたものの、勝家自刃後、丹羽氏を経て、堀秀政が秀吉から越前18万石を拝領して越前北ノ庄に入ると、秀政は叔父が浄土真宗の僧侶であったこともあり浄土真宗を保護。堀秀政の居館は寺の西に位置する足羽山山麓、現在の堀町に築かれたといい、寺は秀政の墓所の一つとなっています。


古都の礎-長慶寺

 

本堂。

本尊阿弥陀如来像を安置します。
 

古都の礎-長慶寺

堀秀政の墓。

堀秀政(1553~1590)は美濃出身の武将。通称、久太郎。斎藤道三に仕えたのち織田信長に仕え、小姓として重用されます。伊賀の乱に出陣、信長から近江坂田2万5千石を拝領。天正10年(1582年)、毛利攻めの総指揮官羽柴秀吉の下で武将として従軍している最中、本能寺の変により主君織田信長が自刃。そのまま羽柴秀吉の中国大返しに加わり、山崎の戦いに参加しました。柴田勝家と羽柴秀吉の戦いである賤ヶ岳の戦いでも秀吉方武将として参加。戦功として秀吉から近江佐和山9万石を拝領しました。天正13年、敵軍内通の疑いをかけられた越前北ノ庄城主丹羽長重の転封に伴い、秀吉から越前18万石を拝領、越前北ノ庄に入ります。天正18年、秀吉の小田原攻めに参陣している最中、38歳で病死。遺体は小田原に葬られましたが、髷だけが領地の越前に持ち帰られ、居館の近くにあったこの寺に埋められ墓所とされたそうです。

 

 

 

長慶寺;福井市西木田2-3-12