福井にある瑞源寺です。

古都の礎-瑞源寺
 

高照山瑞源寺という臨済宗妙心寺派の寺。

奈良時代の修行道僧泰澄が創建したという伝承があり、越前吉江(現在の鯖江市)にありました。しかし、まもなく荒廃、消滅したといいます。

江戸時代の延宝元年(1673年)、越前吉江藩主松平昌明(のちの昌親)は自身が開基となって瑞源寺を復興。臨済宗の寺に改め、母の位牌を収めて菩提所としました。延宝2年、昌明が福井藩5代藩主に迎えられると、吉江にあった瑞源寺を福井城下に近い足羽山麓のこの地に移しました。

開基松平昌親(1640~1711)は福井藩5代・7代藩主。福井藩3代藩主松平忠昌の五男。母は浦上氏。初名は昌明。正保2年(1645年)、父の遺言により越前吉江2万5000石を福井藩から分割され、初代越前吉江藩主となります。延宝2年、異母兄の福井藩4代藩主松平光通が自殺。光通は昌明を福井藩主とするよう遺書を残していましたが、光通には庶子とはいえ実子の権蔵がいたほか、庶兄越前丸岡藩主松平昌勝も存命で、それぞれの家臣が幕府に相続を陳情。光通の遺書が通り昌明が福井藩5代藩主となります。昌明は名を昌親と改め、吉江藩は福井藩に戻されます。相続時の混乱から昌親に従わない家臣も多く、2年後には甥の綱昌(昌勝長男)に藩主を譲って隠居、名も旧名の昌明に戻しました。福井藩6代藩主となった松平綱昌は飢饉で領内に大量の餓死者を出すなどの失策を行い、幕府から改易、蟄居を命じられます。福井藩は取り潰しのところ御家門に免じて石高を25万石に半減した上で存続を認め、前藩主昌明が再度藩主となるよう命じられ福井藩7代藩主として再登板。石高が半減した福井藩財政を立て直し、藩士2000人のリストラ、知行半減を断行。「御家御条目」「御用諸式目」を制定、藩内の規律を正しました。宝永元年(1704年)、将軍徳川綱吉から偏諱を受けて吉品と改名。子はなく甥の吉邦(昌勝六男)に福井藩主を譲り69歳で隠居。72歳で死去。墓所は自身が菩提所としたここ瑞源寺にあります。


古都の礎-瑞源寺
古都の礎-瑞源寺
 

本堂。

幕末の万延元年(1860年)、老朽化した瑞源寺本堂建て替えの際、福井城本丸御殿御小座敷が下賜されたもの。

現在、福井城址には福井城時代の建物が一つも残っていないため、この本堂と、同じく福井城本丸奥御殿の一部を移築した瑞源寺書院のみが、今に残る福井城の建物遺構となっています。

 

 

 

瑞源寺;福井市足羽5-10-17