姉小路通新町西入るにある高松神明神社です。


古都の礎-高松神明神社
 

平安時代中期、左大臣源高明の邸宅高松殿がこの地にあり、その内にあった鎮守社として創建されたと伝えられます。

源高明(914~983)は醍醐天皇の第十皇子。母は更衣・源周子。延喜20年(920年)、7歳で賜姓源氏して臣籍降下。同母姉2人が左大臣藤原師輔の継室、継々室となり、高明も師輔の2人の娘を正室、継室としました。天慶2年(939年)、参議。天暦元年(947年)、権中納言。天暦7年、大納言。天徳4年(960年)、師輔が死去。康保2年(965年)、長女を為平親王(村上天皇第四皇子)の正妃とします。康保3年、右大臣。康保4年5月、村上天皇崩御、冷泉天皇即位。同9月、冷泉天皇の同母弟で有力な皇位継承者であった為平親王は退けられ、その同母弟守平親王が皇太弟に立てられます。同12月、左大臣。安和2年(969年)、娘婿の為平親王を帝位につけるため冷泉天皇に謀反を企てたという咎をかけられ、太宰権帥に左遷。高明は即日出家するも許されず、大宰府に送られました。藤原氏による他氏排斥の一環であったと考えられています。天禄2年(971年)、赦免、翌年帰京。朝政に復帰することはなく、葛野に隠棲。天元5年(983年)、69歳で死去。
高明の死後、高松殿は次女源明子が伝領します。源明子は叔父の盛明親王の養女、従姉の東三条院藤原詮子の庇護を経て、摂政太政大臣藤原道長の妻となり、この邸宅によって高松殿と呼ばれました。


古都の礎-高松神明神社

 

高松殿は治安元年(1021年)と保安元年(1120年)に焼失。久安2年(1146年)、鳥羽上皇が入手、高松殿を新造します。久寿2年(1155年)、平安京内裏が焼失していたため、後白河天皇は高松殿で即位。高松殿内裏と呼ばれます。保元元年(1156年)、後白河天皇とその兄崇徳天皇の争い保元の乱が勃発。平清盛、源義朝らは高松殿内裏にいた後白河天皇のもとへ集結、白河北殿にいる崇徳上皇を攻め勝利しています。

高松殿は保元2年まで後白河天皇の内裏として使われましたが、平治元年(1159年)、平治の乱により焼失。以後、再建されることはなく、鎮守社であるこの社だけが残ったそうです。


古都の礎-高松神明神社
 

本殿。

祭神は天照大神、八幡大神、春日明神。


古都の礎-高松神明神社

 

神明地蔵尊。

室町時代、高松神明神社境内に神宮寺である宝性院が創建されます。

こちらの地蔵尊は、宝性院住職宥玉法印が、紀州九度山より真田幸村の念持仏を持ち帰ったとされるもの。宝性院は明治初期の廃仏毀釈により廃寺となり、この地蔵堂だけが境内に残されたそうです。

 

 

 

高松神明神社;京都市中京区姉小路通新町西入津軽町790-1