連載6【長澤松平風聞記】 その6 | 東海愛知新聞『矢作に住んでみました』バックナンバーはコチラ

松平三代目である松平信光は

 

子女(子ども)が48人いたと伝わる人物だ

 

 

男性であれば、羨ましいような

 

信じられないような

 

子宝の数である

 

 

史実として残されている女性としては

 

正室一名、側室が二名であるため

 

その三名で48人もの子を産んだ、

 

と言うのは、いささか現実的ではないと言えるだろう

 

 

 

 

信光を取材していて感じることは

 

なかなか魅力的な人物だったのだろうな、

 

と言うことである

 

 

 

 

原稿で取り上げている、長澤松平の祖となった

 

「松平親則(ちかのり)」が、

 

信光の長男なのか、末っ子なのかと

 

議論される所以は、

 

親則が、信光の30を越えてから生まれた子であるからと

 

考えられるからである

 

現代で言えば、30過ぎて初めての子が誕生した

 

と言うのは、よくある話になってきたが

 

信光は松平家の跡取りであり、

 

一刻も早く、次の跡取りが欲しい立場であった

 

 

 

 

しかも、一族の跡取り、いわゆる「嫡男」とは

 

正室との間に生まれた、一番最初の子のことを言う

 

 

 

 

そのため、子女が48名いたと言うことは、

 

正室との間に子が生まれる前からも、

 

生まれてからも、信光には側室や妾が

 

大勢いたのだろう、また、幾人もあてがわれたのではないか

 

そして、親則と母を同じくして、次に生まれた兄弟が親忠(ちかただ)である

 

後の、松平4代目となった人物であり、家康へとつながる松平となった

 

 

また、松平家を取材していくと、

 

大変に信仰心の篤かった一族であったと言うことも

 

浮かび上がってくる

 

そのため、一族の勢力を広げる過程において

 

人との出会いやご縁をことのほか大切に扱い、

 

自分達にとっても有利なように、養子や猶子も

 

積極的に取り入れていったのではないか、

 

とも考えられる

 

 

 

 

ともかく、信光は京都においても活躍をし、

 

女性関係も多かっただろう、

 

きっと、女性の方もほっておかなかったのだろう

 

と考えられるが、

 

誰かにひどく恨まれて、

 

短命だったと言うわけでもなく

 

どちらかといえば、一族を見守りつつ

 

長生きをした人物であった

 

 

 

 

今思うと、

 

信光のコミュニケーション能力の高さは

 

松平一族の行く末を決定づけるほどの

 

素晴らしい才能だったのだろうな、と思う

 

 

 

 

後の世に

 

松平氏一族の中において、血で血を争う時代が始まってゆく

 

ことになるが、

 

それは、夢にも思わなかったに違いない

 

 

 

歴史とは、そう言うものである

 

 

 

 

 

▶︎行ってみよう❣️信光の正室「真浄院殿」の菩提を祀った

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