私は、5月8日に、前立腺がんで、PSAは「132」、がんが「膀胱へ浸潤」でTNM分類が「T4NOMO」、ステージ」、グリソンスコア「5+5で10(満点)」とすべての結果がでました。また、5月8日からホルモン療法(内分泌療法)を、「リュープリン」(LH-RHアゴニスト薬)とビカルタミドで開始しています。

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2024年6月12日に、92才の母がホスピスのF病院で亡くなりました。母の介護のことは、「はてなブログ」で書いていました。(ここ

 

2024年5月4日の早朝に、施設(グループホーム)で転倒し、大腿骨骨折で、A市民病院で人口骨を入れる手術を受け、20日間頑張り、その後は「腎盂がんのステージ4」でしたので、高齢につき打つ手がなくなり、ホスピスで緩和ケアのみとなりました。ここでも20日間頑張りました。がんの最期は、モルヒネで痛みをコントロールできると聞いていますが、本人しか判らないことですので、母が、「痛みがなく安らかに逝けたのか」はどうなのでしょうね?

 

ホスピスでは、点滴はしませんでした。先生曰く「点滴をすると他の臓器等への負担になる」とのことでしたし、ホスピスだからという事情もあります。母が食べたいとか水を飲みたいとか言えば(言える場合)、まあ言わば好きなものは何でも食べさせることもできます。一方、言えない場合ってどうなんでしょうね。看護師さんが、食べさせてみて、その反応を見ながら調整するようなやりかたですね。

 

母の場合でひとつ気になったのは、母は自分で食べたいとか水が飲みたいとか、ほとんど言えなくなった時でしたが、私が面会に行った際に、本人が水が飲みたいのに、我慢しているように思え、私が母に「水が飲みたいのと違うの?」と言うと、首を縦に小さく動かしたのですね。この時は、私としては辛いでしたね。私は面会時間以外に常に母の傍にいて「水が飲みたいの?」と頻繁に聞けばできることですが、ホスピスではそんなことはできないのです。ホスピスでの最期って手厚いようで、些細なことですが、我慢の連続のような気がしますね。

こんな制約の中で、私が母にできることと言えば、毎日面会に行くことぐらいでしたね。

 

自分もがんになって思うことは、がんの最期で、「痛みがない人は3分の1」というのを本で読みましたが、母も含め、3分の2の人は痛みとの闘いもあるし、水さえ飲みたいのに、それが言えなくなれば、我慢をしているのか、それとも本当に「最期」で飲みたくないのかが判らないことが辛いですね。母を見ていて、母は「ただ粛々と最後まで戦った」という感じなのですね。

 

「安らかに、眠るように逝く」なんてことはあるのでしょうかね、今までは考えもしませんでしたが、実態はそんな甘いものではなく、緩和ケアも技術が進んでいるとは言え、本人の意思もわからない状態では、モルヒネが効いているのかの検証もできないと思います。「人は闘いながら死ぬもの」なのかもしれませんね。であれば、思いっきり闘い抜いて、最後は朽ちるように死ぬことも、「がんと闘う」という目標があっていいのかもと思いました。

 

2024年3月1日に、母が腎盂がんの告知を受けたことが契機となり、私の家系でもがんがあること、それも腎臓系でというのが判りました。その後、私も飲み会の「連れション」で一番遅いのが気になった等の多少の自覚症状がきっかけで、4月1日に泌尿器科を受診したのでした。母のがん告知がなければ、多分、私は泌尿器科へも行かなかったでしょう。そうであれば、ステージ3ではなく、確実に転移のステージ4の段階だったでしょうね。母が、すんでのところで私を連れていくのを遠ざけたのでしょうかね。そう願うばかりなのですが・・・・

 

ここ数日の副作用として、胸の違和感である女性化乳房は治まっているようですが、母が亡くなった6月12日くらいから、左の下腹部の鈍痛が少し気になっています。そういえば、最初に泌尿器科で指摘された水腎症も原因不明で、母の腎盂がんに近い箇所の「水溜り」ですし、あるいは、膀胱へのがんの浸潤の影響なのかもしれませんね。また、肌の脂分が、以前より明らかに少なくなっているのが気になっています。

とは言え、6月20日に久しぶりに、ロードバイクで日帰りで54キロを走り、須磨のラジウム温泉「華の湯」に入ってきましたが、いつも通りに走れました。(詳細はここ

すると、下腹部の鈍痛も一時的にですが消えるのですね。まあ気のせいなのかもしれませんが・・・