大学予備校の同窓会って世間ではあるのですかね?

2024年3月2日(土)に、何と大学予備校(当時の大阪YMCA土佐堀校の1973年から1974年3月終了の)の仲間5人の集まり(飲み会)で、ほぼ半世紀ぶりの再会を果たしました。

 

現役合格に敗れてすさんだ時期と一般的には思われがちですが、私の場合に、たまたまよく気が合った約10名ほどが、予備校があるちょうど道を挟んだ反対側に「カフカ」という喫茶店があり、そこにたむろしては、よく話をし、バカなことも結構していました。ほぼ、このメンバーは授業はあまりというか、ほとんど出席しませんでしたが、中之島の図書館でよく勉強はしていましたね。

この仲間は、全員が同じ予備校なのですが、ほぼ高校もほぼバラバラでした。まあみんな進学校が多かったのですが、私の高校(S校)だけが少し1ランク下!?だったように思いますね。

 

K君は、私と同じS校のラグビー部のキャプテンで、彼の廻りには同じS校でつながりのある仲間がいつも4~5名いたのですが、私は、実はS校在学中はK君とは話をしたことがなく、なぜかこの予備校で意気投合したのでした。

K君の実家は、当時は大阪では有名なケーキ屋のチェーン店(HTKとします-上の写真のようなロゴで、よくテレビでもコマーシャルが流れていました)を経営していてその次男なのですが、そのこととともに、彼の人を繋げる個性も相まって、S校以外の高校出身の5~6名がこの喫茶店の「カフカ」で集まることになったのでした。

K君の廻りには、いつも人が集まり、わいわいがやがやとやっていて、浪人であることを忘れるような楽しさでしたね。

 

「カフカ」では、マスターからある時に引っ越しの手伝いをお願いされ、この仲間の数名で手伝いに行ったのですが、マスターにお礼代わりに、引っ越し後にサウナ「ニュージャパン」に連れて行ってもらったこともありました。また、この仲間の何人かとは吹田の民俗学博物館のアルバイトもしたこともありましたし、大学に入ってからも結構付き合いは続きました。

また、K君はよく自分の家に私達を連れていくことがありました。K君は、3兄弟の次男で、3人の姉もいて6人の兄弟姉妹なのですが、私は、K君の両親もそうですが、長男さん以外の3人のお姉さんと弟さんにも、会ったことがあります。特に覚えているのは、当時私は家にあった車を自由に使えたので、K君の結婚されているお姉さん3人すべての家に、何かの用事でK君を車に乗せて連れていったこともありましたね。まあそんな間柄でした。

 

そうやって楽しい浪人生活をK君のお陰で過ごせたわけですが、受験の結果は、我々の仲間はほぼ1浪で何とか夫々の大学に滑り込んだのです。でも、K君ともうひとり神戸在住のT君は2浪になってしまいました。ちなみに私と神戸のT君のみが東京の同じ私立大学に行き、それ以外の仲間は、K君も含め、全員国立大学に行きましたね。

 

大学に入った後もこの予備校仲間との交流が続いていました。アルバイトも一緒によくしました。K君が2浪で合格した夏休みだったか、K君が東京へS高のラグビー部の後輩の下宿(深大寺)に数日間来た折には、K君、後輩2人、東京にいた私の4名で、西武競輪場で警備のアルバイトをして、そのアルバイト代をそのまま吉祥寺で使い果たしたりとバカなことをよくしましたね。

また、私が正月に大阪に帰省すると、大阪にいた予備校の友人達と一緒にK君の実家がやっているケーキ屋(&喫茶店)の年末年始の応援でいくつかある店のひとつである心斎橋店(心斎橋筋にあった)で毎年よくアルバイトをしました。

そんなこともあり、よくK君の家にも行きましたし、創業者のお父さん、お母さんとも会って話もしました。当時は井上ひさしさんの「モッキンポット氏の後始末」という小説が流行っていましたが、まああんな面白可笑しい生活だったと記憶しますね。

 

暫くして、夫々が大学を卒業し、就職をすると流石に徐々に年賀状程度のつきあいになりました。一つには、それぞれの勤務先が関西、関東、東北と全国に散らばったこともありました。

K君は、地方の国立大学に入り、そこでもラグビーも続け、4年で卒業後もラグビーでも有名な大手酒造メーカーに就職しました。その後、そこを辞め独立し、自分で飲料関係の仕事で独立したとまでは聞いていました。

その後、お互い会えないまま20数年過ぎたある日に、予備校仲間のひとりから連絡があり、K君が亡くなったとの連絡がありました。病名はもう定かに覚えていませんが、心筋梗塞か確か突然死のようだったと記憶しています。年齢は50才前後だったと思いますね。たまたま、私は大阪に勤務していたので、大阪の阿倍野斎場での告別式に行きましたが、大勢が参列していました。ご両親もまだご健在であったと記憶します。その時に聞いた話ではK君は結婚してお子さんもいるとのことで、ただただ無沙汰が悔やまれました。

 

K君が亡くなってから、10年くらい経ったときでしょうか、K君のケーキ屋チェーンがどうなったかを調べた時期がありました。ネット検索でも出てこず、グーグルで国道26号線の沿線にあった大きなケーキ工場もすでに使われていないようでした。我々がよく行ったK君の家も今はなくなっているようです。何か時の流れを感じました。

どうなっているのでしょうか? ご家族のことも心配になりました。ご苦労をされたのかもしれませんね・・・

 

2023年3月、K君が亡くなってから、20年近くが経ちました。我々が68才(1名は当時2浪目だった!!ので69才)となったある日、当時の予備校仲間の5名が大阪で集まりました。今回の5名は、全員が出身高校が違います。本来は、今日の5名に加え、故K君と私と同じS校出身のメンバーH君(山口県在住)と、T君(大阪在住)の2名がいるのですが、今日は欠席です。

参加できたのは、I君(私がたまたまFACEBOOKで見つけたのです!)、Y君とTH君(たまたまH君と年賀状でつながっていた)、T君(Y君の近所に表札があった!ので連絡した由)と私の5人で、まあ、ほぼみんな半世紀ぶりの再会になりました。

 

予備校仲間は、全部で12名くらいと思いますが、すでにこのK君と、3年前にH君の2名が鬼籍に入っています。この面々もみんなそもそもK君が繋いだ仲なのです。

 

半世紀ぶりの5人の再会では、すぐに時間が戻り、記憶が復活し、最初の距離がなくなり打ち解けて、19才のころに戻りました。なかなかいいものです。

 

K君のつないだ仲間は、今日会った5人と欠席の2人以外にもまだ数名の行方不明者がいます。できれば、皆でまた不明な仲間を探して会い、K君、それに亡くなったH君を偲んでまた会おうということになったのでした。

 

1974年4月から1975年3月までに、大阪のYMCA土佐堀予備校にいた人いないかなあーーー