こんにちは、ロイヤル麦茶です。

今回紹介する神社は神奈川県藤沢市江の島にあります江島神社です。

御祭神は多紀理比賣命、市寸島比賣命、田寸津比賣命。

欽明天皇の勅命で江の島の洞窟(御窟、現在の岩屋)に神様を祀ったのが江島神社の始まりと伝えられております。
文武天皇4年(700年)に修験者の役小角が江の島の御窟に参籠して神感を受け、修験の霊場を開きました。これに続いて泰澄、道智、弘法、安然、日蓮などの名僧が御窟で次々に行を練り、高い御神徳を仰いだと伝えられております。弘仁5年(814年)に空海が岩屋本宮を仁寿3年(853年)には慈覚大師が上之宮を創建。建永元年(1206年)には慈覚上人良真が源實朝に願って下之宮を創建しました。また、岩屋本宮に海水が入り込んでしまう4月~11月の間に岩屋本宮の御本尊が鎮座されていた本宮御旅所が1600年代に創建されたと考えられております。
慶安2年(1649年)に仏教との習合により金亀山与願寺と称しておりましたが、明治の神仏分離によって江島神社に改められ、本宮御旅所が奥津宮、上之宮が中津宮、下之宮が辺津宮にそれぞれ改称されました。

鎌倉江の島七福神の弁財天の札所で、日本三大弁天の一つに数えられております。

 

小田急線の列車で片瀬江ノ島駅までやってきました。龍宮城をイメージした駅舎で、令和2年(2020年)に建て替えられたものです。

 

ちなみにこちらが以前の駅舎になります。

 

江の島まで橋で繋がっておりますが、歩行者専用の江の島弁天橋を渡ります。

 

この日は朝から良い天気で、江の島弁天橋から綺麗な富士山が見えました。

 

江の島が見えてきました。

 

江の島弁天橋を渡り切った先に青銅の鳥居が建っておりました。古くは木製の鳥居でしたが、文政4年(1821年)に青銅製で再建されたそうです。

 

扁額に書かれている文字が読めませんでしたが、蛇を模った文字で「江島大明神」と書かれているそうです。

 

青銅の鳥居をくぐり、仲見世通りを進みます。

 

先に進むと社号標と朱の鳥居が建っておりました。種の鳥居は昭和11年(1936年)に山田流筝曲の家元・林敏子が再建・寄進したものだそうです。

 

朱の鳥居のそばには狛犬がおりました。

 

朱の鳥居の左手にはエスカーののりばがありました。エスカーは国内初の屋外エスカレーターです。こちらは1区ののりばで、有料ですが足腰が弱い人でも楽に上る事が出来ます。

 

しかし、ここはエスカーを利用せず頑張って上っていきたいと思います!!

 

朱の鳥居の後方にある石段を上ると瑞心門が建っております。龍宮城を模した楼門です。

 

こちらは瑞心門に飾られている片岡華陽の唐獅子の絵です。

 

 

瑞心門をくぐると江島神社御鎮座1450年を記念して奉献された弁財天童子石像があります。

 

こちらは瑞心門のそばにありました石碑です。下に由緒らしきものが書いてありましたが、達筆すぎて読めず。梵字が書かれておりますが、調べたところ弁財天のようです。

 

石段を上ります。

 

石段を上ると銅像や石碑がありました。

 

こちらは福石です。江の島にこもり、21日間の断食をして鍼の技術上達を祈願した杉山和一は満願の日の帰り道に福石につまづき、倒れて気を失ってしまいます。その時に夢の中に弁財天が現れ、手を合わせて拝もうとしたところ、チクチクと身体を指すものがありました。夢から覚めると手に取っていたのは松葉の入った竹の筒で、これをヒントに管鍼術を考案し、江戸で開業したそうです。

 

 

福石のそばには杉山和一の像があります。

 

他に江の島弁財天道標もありましたが、写真を撮っておりませんでした。

 

石段を上ると手水舎がありましたが、思いっきり太陽の光を浴びてしまいました。

 

更に石段を上ります。

 

石段の上り切った所にはエスカーの1区の出口がありました。

 

出口のそばには池がありました。

 

池には龍神がおりました。

 

池のそばには手水の水盤と水口がありました。

 

石段とエスカーの一区出口の先に辺津宮があります。辺津宮には田寸津比賣命が祀られております。

 

拝殿の右手前には茅の輪が設置されておりました。

 

辺津宮の先には奉安殿があります。八角のお堂で、八臂弁財天と裸弁財天・妙音弁財天が祀られています。

 

中津宮へと続く参道を進みます。

 

奉安殿の隣に八坂神社がありました。昔は江の島の対岸の腰越に祀られておりましたが、大波に流され、御窟前の海中に沈んでいた御神体を漁師が拾い上げ、江の島に祀ったと伝えられております。

 

こちらは八坂神社の前にいる狛犬です。

 

八坂神社の左手には稲荷社と秋葉社の合殿があります。

 

江の島の随所にあった小さな祠を合祀しており、江戸時代に火事が多かった事から祀られたと伝えられております。

 

稲荷社と秋葉社の左手には祓所がありました。

 

こちらは祓所のそばにありました宋国伝来の古碑です。元久元年(1204年)、宋に渡った源実朝の使節良真が慶仁禅師より江の島に因んで授けられたと伝えられております。

 

参道を進むと鳥居が建っておりました。

 

鳥居のそばには水盤がありましたが、こちらは水みくじようの水盤でした。

 

鳥居をくぐると猿田彦大神の石碑がありました。天保3年(1832年)に建てられたものです。

 

参道を進みます。

 

先に進むとエスカーののりばがありました。こちらは2区ののりばです。

 

エスカーには乗らず、石段を上ります。

 

石段の途中に展望台がありました。八坂神社があったとされる腰越は海の向こう側にあります。

 

石段を上ると江島不老門再造記と書かれた石碑がありました。中津宮の前には不老門と呼ばれる楼門があり、文久元年(1861年)に相州津久井郡勝瀬の富豪、岡部政右衛門が私費を投じて再建しましたが、明治6年(1873年)に三重塔とともに取り除かれたそうです。

 

江島不老門再造記碑のそばには水盤がありました。

 

小さな水口がありましたが、わずかながら手水が出ておりました。

 

こちらは七代目・尾上菊五郎と五代目・尾上菊之助の手形です。

 

平成11年(1999年)9月に尾上菊五郎と尾上菊之助出演による江の島大歌舞伎が開催され、その際に尾上菊之助が手植えをしたしだれ梅があると書かれておりましたが、その姿は見られませんでした(自分が見つけられなかっただけ!?)。

 

先に進むと石燈籠がありますが、こちらは天明2年(1782年)に江戸歌舞伎を代表する江戸三座の中村座が寄進したものになります。

 

石燈籠のそばには献燈200年を記念して尾上菊五郎が手植えをしたしだれ桜について書かれておりましたが、しだれ梅同様、その姿を見る事は出来ませんでした。

 

中津宮の前に到着しました。こちらには市寸島比賣命が祀られております。

 

拝殿の右手にはエスカーの2区の出口があります。

 

こちらは中津宮の拝殿前におりました狛犬です。

 

中津宮の社殿左手には水琴窟があります。

 

中津宮の拝殿左手にある門が水琴窟への入口になります。

 

門をくぐり、先に進みます。

 

中津宮の幣殿と本殿が見られました。

 

奥に進むと水口と水盤があります。

 

水盤の手前にある石の中心部に水を流すと、地中に埋められた瓶にしずくとなって流れ、綺麗な音色を奏でます。

 

参道に戻り、奥津宮に向かいます。

 

先に進むとエスカーの3区のりばがありました。

 

辺津宮から中津宮までは比較的短い距離でしたが、中津宮から奥津宮までは結構な距離を歩く事となります。

 

石段を上るとエスカーの3区の出口がありました。

 

先に進むと江の島サムエル・コッキング苑があります。イギリスの貿易商、サムエル・コッキングが造園したもので、苑内では多くの植物が見られるほか、江の島シーキャンドルタワーがあります。

 

先に進むと福島漁村の句碑がありました。句碑があった場所に旅館がありましたが、福島漁村はその旅館の主人でした。句碑には「貝がらも 桜の名あり 島の春」と書かれております。

 

こちらは一遍上人の島井戸です。時宗の開祖、一遍上人が飲料水に窮する島民を助ける為に掘り当てたと伝えられております。

 

先に進むと「山ふたつ」と呼ばれる所に到着しました。江の島を上空から見るとひょうたんのようにくびれた形になっており、こちらは江の島を二分するくびれ部分にあたる事から山ふたつと呼ばれるようになったそうです。

先に進むと群猿奉賽像庚申塔がありました。写真だと分かり辛いですが、沢山の猿が彫られております。

 

奥津宮までの道のりは上り下りが続く上、エスカーはありません。

 

足腰の弱い人にとっては大変だと思いますが、奥津宮までの参道脇には食事処やカフェなどがあるので、休みながら行けば何とか行く事ができるかな!?

 

奥津宮まであと一息です。

 

奥津宮の手水舎がありました。

 

水口は亀でした。

 

奥津宮の鳥居の前に到着しました。源頼朝が治承6年(1182年)に奉納したと伝えられております。平成16年(2004年)の台風で破損した為、一部新しい素材で補修されております。

 

鳥居のそばにはイチョウが立っております。

 

イチョウの木の下には石がありました。こちらは亀石です。

 

こちらは亀石のそばにありました力石です。

 

こちらは亀石と力石のそばにありました山田流箏曲流祖山田検校斗養一像です。江戸時代の筝曲音楽家で、筝曲山田流の祖です。

 

 

長い道のりを進み、ようやく奥津宮の拝殿前にたどり着きました。奥津宮には多紀理比賣命が祀られております。

 

拝殿の天井には八方睨みの亀が描かれております。江戸の絵師、酒井抱一によって描かれたもので、こちらは平成6年(1994年)に片岡華陽が復元したものになります。

 

 

拝殿から奥津宮の本殿が見られます。

 

こちらは拝殿の前にいる狛犬です。

 

奥津宮の社殿左手には龍宮(わだつみのみや)があります。平成5年(1993年)、岩屋本宮の真上に当たる所に建てられました。

 

龍宮の鳥居をくぐると右手に水盤と水口がありました。

 

先に進むと龍宮の社殿がありました。岩を組み上げられたものになっております。

 

社殿の上には大きな龍がおりました。

 

こちらは龍宮の社殿前にいた狛犬です。

 

こちらは龍宮の近くにありました祠です。

 

参道はここで終わりではなく、岩屋へと続く道が続いております。

 

先に進むと海が見えてきました。

 

とても見晴らしが良い所に出ました。

 

正面には富士山が見られます。

 

こちらは稚児ヶ淵で、海水によって削られて比較的平坦になった岩盤が隆起してできた海食台地です。

 

稚児ヶ淵には6基の石碑があります。説明書きによると上の写真の真ん中にあるのが松尾芭蕉の句碑、向かって左にあるのが佐羽淡斉の詩碑で、下の写真で向かって右側にあるのが服部南郭の詩碑です。他の石碑については特に書かれておらず、詳細は分かりませんでした。

 

岩屋の方へ進みます。

 

先に進むと岩屋に続く橋が架かっておりました。

 

橋のそばには波打ち際に続く階段がありました。

 

この日は波が荒かったので立入禁止になりました。

 

しかし、立入禁止になっていたにも関わらず、波打ち際まで降りて撮影している人がおりました。波にのまれても知らんぞ…。

 

橋の先に岩屋の入口がありました。岩屋は波の浸食でできた海食洞窟で、奥行き152mの第一岩屋と奥行56mの第二岩屋で構成されております。第一岩屋の奥に江島神社発祥の場所があります。

 

この後、奉安殿付近にある御朱印受付で御朱印をお願いしました。

 

授与されている御朱印の種類は多いですが、今回は通常の御朱印のみ頂いております。

 

これから片瀬江ノ島駅に戻りますが、朱の鳥居までは来た道とは別のルートを通ります。

 

先に進むと児玉神社の鳥居が建っておりました。

 

明治時代の軍人・児玉源太郎が祀られておりますが、令和2年(2020年)に境内全体が競売に掛けられてしまい、不動産リゾート会社が落札し、現在は境内に立ち入る事が出来ない状態になっております。

 

看板や社号標、石碑にはブルーシートが被せられている状態でした。

 

境内には入る事が出来ませんが、児玉神社のホームページによると、郵送でお守りや御朱印を頂く事ができるようです。

 

この後、朱の鳥居から仲見世通り、江の島弁天橋を経て片瀬江ノ島駅に戻りました。

 

 

 

 

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