こんにちは、ロイヤル麦茶です。

今回紹介する神社は山形県米沢市丸の内の上杉神社です。

御祭神は戦国時代の武将、上杉謙信公。

天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が越後の春日野城で急逝し、遺骸を春日野城内の不識庵に仏式で鎮祭されました。後に上杉景勝が会津を経て米沢に移封される際、上杉謙信の祠堂を米沢城内に遷されました。
明治時代に入ってから神仏分離令、廃城令などにより上杉謙信の遺骸が上杉家廟所に移された際、城内に留まっている上杉謙信の霊魂を神式で祀る為、上杉鷹山を合祀して上杉神社と称し、明治9年(1876年)に新たに社殿を建てて遷座祭を行いました。
明治35年(1902年)に上杉神社から上杉鷹山が分祀され、松岬神社が創建されました。

米沢市の中心部にある米沢城址に境内があります。

 

米沢駅より山形交通のバスに乗車し、上杉神社前で下車しました。

 

バス停の近くにある横断歩道を渡ります。

 

横断歩道を渡り、先へ進みます。

 

先に進むと右手に行在所遺趾と書かれた石碑が建っておりました。明治14年(1881年)の明治天皇の東北地方巡幸の際、この地にあった南置賜郡役所を訪れたそうです。南置賜郡役所は大正8年(1919年)の米沢大火により類焼してしまいましたが、明治天皇ゆかりの遺跡があった事を後世に伝える為、石碑が建てられたそうです。

 

先に進むと秦逸三の像がありました。

 

秦逸三は米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)となり、国内で初めて化学繊維(レーヨン)を作り出した後、帝國人造絹絲株式会社(現在の帝人)を創業しております。

 

こちらは上杉鷹山の像です。

 

上杉鷹山が家臣に示した和歌「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」は有名ですね。

 

アメリカ合衆国 第35代大統領ジョン・F・ケネディが政治家で最も尊敬するのは上杉鷹山だったそうです。

 

上杉鷹山の像のそばには草木塔がありました。

 

先へ進むと上杉鷹山が祀られている松岬神社がありました。

 

一の鳥居右手に社号標が建っております。

 

一の鳥居左手には石碑がいくつか見られました。

 

一の鳥居をくぐり、参道を進みます。

 

参道脇に上杉鷹山が生まれてから松岬神社が創建されるまでの略歴が書かれている石碑がありました。

 

隣には肖像画がありましたが、恐らく上杉鷹山だと思われます。

 

参道脇は庭園になっておりました。

 

こちらは参道脇にありました東屋です。

 

参道左手に手水舎がありました。

 

柄杓はありませんでしたが、手水が出ていたので直接清めました。

 

先に進むと二の鳥居が建っておりました。

 

二の鳥居付近には上杉鷹山が残した「伝国の辞」が書かれた石碑がありました。

 

こちらの小さな石碑にも伝国の辞と解説が書かれておりました。

 

鳥居をくぐり、松岬神社の拝殿前に到着しました。

 

こちらは拝殿に掲げられている扁額です。

 

拝殿前には狛犬がおります。

 

こちらは本殿の周りを囲む瑞垣の門です。

 

瑞垣内に鎮座する松岬神社の本殿です。

 

松岬神社の隣には幼稚園があり、松岬神社の境内と一体化されております。

 

松岬神社の社殿そばには遊具がありました。

 

こちらは松岬神社の社務所です。

 

以前は元日に開いていたようですが、令和3年以降は開いていないようです。

 

松岬神社のお参りを済ませ、先へ進みます。

 

米沢城のお堀を渡ります。

 

お堀を渡ると左手に上杉謙信の祠堂跡へと続く石段があったので上ってみました。

 

石段を上ると策に囲まれた中に石碑が建っておりました。

 

こちらが祠堂跡になります。

 

祠堂跡のそばにはいくつか石碑が見られました。こちらは招魂碑です。

 

こちらは「皇太子嘉仁親王殿下御大婚紀念之松」と書かれた標です。嘉仁親王とは後の大正天皇ですが、明治33年(1900年)5月10日に結婚されているので、その頃に建てられたものと思われます。ただ、石碑に書かれていた松は見当たりませんでしたが、ひょっとして写真右側に写っているのがその松なのでしょうか?

 

お堀の先から二の鳥居までの参道脇には多くの像・石碑が見られました。こちらは祠堂跡の向かい側にありました上杉謙信の像です。

 

こちらは上杉景勝と直江兼続の像です。

 

こちらは上杉鷹山の像です。松岬神社のそばにあった像は座っておりましたが、こちらは立っております。

 

こちらの像の近くに家臣に示したが和歌の歌碑がありました。

 

こちらは「伊達政宗公生誕の地」と書かれた石碑です。伊達政宗は米沢城で生まれたと伝えられておりますが、別の説(山形県米沢市館山の館山城)もあるそうです。

 

こちらは米沢市のキャラクター「かねたん」の像がありますが、雪除けが設置されている為、見えづらい状況になっておりました。

 

隙間からわずかに見えました。かねたんは直江兼続をモチーフ(?)としたキャラクターです。

 

こちらは野口雨情の歌碑で「あづま山から 兎がはねて ぴょこんとここまで こえばよい」と書かれております。

 

こちらは建国記念の日の石碑です。

 

こちらは従三位上杉曦山公之碑です。

 

上杉曦山は上杉斉憲の号だそうです。

 

こちらは奉牛舎碑です。

 

こちらは上杉鷹山の誓いの言葉「受けつぎて 國のつかさの 身となれば 忘るまじきは 民の父母」が書かれた石碑です。

 

こちらは上杉鷹山の誓いの言葉の石碑すぐそばにありました石碑ですが、書かれている文字は読めませんでした。

 

こちらの石碑は漢字のみで書かれていたので、詳細は分かりませんでした。

 

上杉神社の一の鳥居前に到着しました。

 

一の鳥居右手前には社号標が建っておりました。

 

社号標の右手にあります観光案内所などが入っている臨泉閣には直江兼続の座像がありました。

 

一の鳥居をくぐり、先へ進みます。

 

臨泉閣の裏手にありましたこちらは神楽殿でしょうか?

 

こちらは参道の左手にあります手水舎です。

 

柄杓はありませんでしたが、手水が出ていたので直接清めました。

 

水口は獅子…というよりかライオンでしょうか。

 

先に進むと上杉謙信の家訓十六ヶ条が書かれた石碑がありました。

 

二の鳥居前に到着しました。

 

二の鳥居をくぐると神門があります。

 

神門の前には姿勢の良い狛犬がおります。

 

神門をくぐり、先へ進むと上杉神社の拝殿が鎮座しております。雪除けが施されておりました。

 

こちらは幣殿と本殿ですが、こちらも雪除けが施されておりました。尚、上杉神社の社殿は大正8年(1919年)の米沢大火により類焼し、大正12年(1923年)米沢出身で建築界の泰斗、伊東忠太の設計により再建されました。

 

本殿の右手後方にありましたこちらは何でしょうか!?

 

瑞垣の右手に赤い鳥居が建っておりました。

 

こちらは境内社の福徳稲荷神社の参道入口に建っていた鳥居です。尚、こちらは一の鳥居ではなく二の鳥居となります。

 

一の鳥居は境内北側の駐車場に建っております。

 

福徳稲荷神社の二の鳥居をくぐり、先へ進みます。

 

しばらく進むと鳥居と社殿が見えてきました。

 

拝殿の前に建っている三の鳥居です。

 

二の鳥居のすぐ後ろに神狐がおりました。

 

福徳稲荷神社の拝殿です。

 

拝殿には由緒書きが掲げられておりました。福徳稲荷神社は享保10年(1725年)に上杉宗憲が城内の鎮護として二の丸に勧請したもので、明治9年(1876年)5月に上杉鷹山の信仰が厚かった三の丸の稲荷祠を合祀して上杉神社境内に遷して末社としたそうです。尚、米沢大火で上杉神社の社殿は類焼しましたが、福徳稲荷神社は難を逃れたそうです。

 

こちらは福徳稲荷神社の拝殿右手にありました福徳稲荷会館です。そういえば福徳稲荷神社の本殿撮ってなかったな…。

 

福徳稲荷神社の社殿左手に鳥居が建っており、参道が伸びたので行ってみます。

 

 

参道を進むと右手に福徳稲荷神社の本殿が見えてきました。

 

最後の鳥居をくぐると境内社が並んでおりました。

 

向かって右側にあるのは辨天宮です。福岡県の宗像大社より御分霊を勧請しております。

 

左側にあるのは福徳稲荷神社の奥乃院になります。

 

辨天宮の由緒書きと福徳稲荷神社で古くから伝わる白狐の伝説が記されておりました。

 

奥乃院のそばにある小さな祠がありますが、こちらに白狐が葬られているのかな?

 

上杉神社の社殿左手には春日神社があるので行ってみます。

 

こちらは神宝庫かな?

 

先に進むと雪除けが施された石碑がありました。

 

雪除けで見えづらかったのですが、恐らく上杉鷹山の誓いの言葉が書かれているようです。

 

石碑の左手に春日神社の鳥居が建っておりました。

 

鳥居の後方に社号標が建っておりました。

 

参道を進みます。

 

石段の上に二の鳥居が建っておりました。

 

二の鳥居の先に春日神社が鎮座しております。1400年前に越後の国司として派遣されていた藤原遠成が上越の春日山頂に奈良の春日大社より御分霊を勧請し、領内の平和を祈ったと伝えられております。明治5年(1872年)に現在地に遷座されましたが、米沢大火により類焼された為、松岬神社に合祀されておりました。昭和56年(1981年)に市民の浄財により再建されました。

 

上杉神社の社殿右手、祐徳稲荷神社の手前には上杉家の宝物を収蔵・展示している稽照殿がありますが、11月26日から3月17日の間は冬季休館との事だったので、残念ながら入る事は出来ませんでした。

 

こちらは稽照殿のそばにありました赤穂事件殉難追悼碑です。忠臣蔵でよく知られていると思いますが、上杉家は討ち入りを受けた側になるんですね。

 

こちらは赤穂事件殉難追悼碑のそばにありました石碑ですが、碑文は全て漢字で書かれていたので内容は分かりませんでした。

 

稽照殿の向かいには池がありました。

 

池の中には小さな島がありました。

 

こちらは島の上にありました石碑ですが、碑文は達筆かつ全て漢字で書かれていた為、内容は分からず。

 

…と思っておりましたが、すぐそばに碑文の解説が書かれた石碑がありました。上杉謙信が天正5年(1577年)に能登の七尾城を攻略した際、9月13日の名月に当たって月見の宴を開き、その席上で作られた詩だそうです。

 

こちらは同じく島の上にありました鯉供養之碑です。

 

こちらは甘棠之碑です。甘棠とは為政者(政治を行う者)の徳を称える事だそうです。

 

こちらは池のそばにありましたが、元は額殿だったのでしょうか。現在は休憩所として使用されておりました。

 

境内を一通り巡ったので御朱印を頂こうと思います。二の鳥居をくぐると右手に授与所がありますが、こちらで頂く事は出来ません。

 

御朱印は社務所で頂く事が出来ます。

 

社務所で御朱印を頂きました。

 

松岬神社の御朱印も上杉神社の社務所で頂く事が出来ます。御朱印には「なせば成る」と書かれておりました。

 

尚、今回は頂いておりませんが、上杉神社ではオリジナル御朱印帳の授与も行われております。

 

上杉神社への移動の様子をYouTubeにアップしております。公共交通機関を利用している方の参考になればと思いますので、よろしければご覧ください。

 

 

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