脳みそなんかなくたって生きていける。それは事実です。でもその人生が充分に満足できるものとなるかどうかは非常に怪しい。それは現実です。
俺がその現実を目の当たりにしたのは、20代も終わりの頃でした。
もっと早かったら、どれだけよかったでしょう。
世の中には、脳みそを、母親の腹ん中とか、産院の廊下の角とか、どっかに忘れてきた人間と、
どこにも忘れずに、生まれてくる時にしっかり自らの頭部、頭蓋内にひだひだたっぷりな脳みそを装てんさせて出生してくる人間とがあるのだということと、そして、その二者のあいだにはそののち、盛大なる相違が生じちまうのだということを、せめて20代にちょーど乗っかったあたり、そう、あのばかばかしいセージン式とかに招かれtっちまうあたりにでも知ることができてたら、ああ、どれだけよかったんっしょう。
でも俺が脳みそのあるなし、その二者の人生の成り立ち方の大いなる相違点に気づかされたのは、とにもかくにもまあ、30才まであと1ヶ月というあたりだったのです。
それを教えてくれたのは、私にとってはけっこう重要と言える友人でした。
そいつは当時、俺んちに、俺のアパートに居候してました。
住まわせてたんです。僻地にある自分ちから学校に通うのは、留年した自分にはきついから、大学に近いあんたんちに居候させてくんないか、と言ってきたその年下の友人と、俺は暮らしを共にしとったんです。
そいつが脳みそを持ってたんです。
俺は、いいなあ、と思いました。
(つびこんてにゅーど)