タクシー運転手なんてぇものをやっておりますてぇと、アベノミクスだの何だのとお上のほうでは世の中あんじょううまいこといってるようなことになっておりますが、実際のところは景気なんぞちいともよくなってなんぞおらんと、そんなことをよくよく実感させられるものでございます。
十何年も昔には、あっち行けぇこっち行けぇ言われて、はいはい言いながらいっこも存じ上げない町まで乗って下さるお客さんも一日に一人二人はいらっしゃったもんですが、アベノミクスの世の中、そんなんは年に一人いるかどうかも怪しいもんでございまして、お客さんが全然おらない町を、気がつけば何回も何回も回転木馬みたいに走っておるような状態でして、はて、きょうこの道何度目だったやろなんて、言うたらデジャヴとでも言うんでしょうか、そんな錯覚めいた心持ちはしょっちゅうでございますんですが、そんな感覚も積み重なりますてぇと危ういもんで、本当に今こうして車を走らせてるのは現実なのか、もしかして全部嘘なんやないやろか、なんてぇ心持ちになってしまうのでございます。
しかしまぁやっぱりどう見ても目の前の道は現実の道路でございましす。ところがわたしの頭ん中はあやふや、ほにょほにょ。なんかこうストレンジ……とでも言いましょうか。
目の前のできごとはストレンジ、でもわたしはここにいる、はっきり目覚めてここに存在している、なんてぇ状態の中に長い時間おりますてぇと、そこに妙なものが現れてまいります。一枚の膜と申しますか、うっすーい壁とでも申しますか、そういったものがこのわたしと現実の世界を、はっきり隔てるでもなく、かと言って親密な行き来を許すでもなく、現れてくるわけでございます。疎外感――世の人はそんな言葉を当てはめてるようでございますが、外を疎ましく感じてる状態、まあ、近いような違ってるような。
しかしまぁ今のわたしの現実はタクシー運転手でございまして、いったんお客さんに乗っていただきますってぇとその瞬間にデジャヴも疎外感も膜も壁もあったもんじゃございません。そこにあるのはハッピーラッキーな現実でありまして、そして目の前にあるのは現実のアスファルト道、よろよろ幅を寄せてくるご老人の自家用車、ふいに目の前に現れる原付自転車、携帯電話で話し中でいつどうなるかわからない自転車等々、シビアな交通状況でございます。気がつけばわたしはただの現実のタクシー運転手に戻っていると申しますか、戻らされているのでございます。
ところが、でございます。
誰も彼もがタクシー運転手ではございません。真面目に取り組まなければならない仕事を持っている人間ばかりでもございません。いつもふわふわ好きな状態でいられる人間だって、この世の中には厳然と存在しているのでございます。わたしにもそんな人間でいられる時代というものがございました。高校の後半から二年でやめることになる大学生の時代でございました。ことに高校二年という時期、いくら勉強してもなんか学校というものに染まりきらん、というか試験だ受験だばかり言われて自分というものの置き場所を勝手に決めてくる親や教師にどうしても賛同しかねる、けれど前の前にあるのは置き場所を決められて唯々諾々と机に向かっている同級生たち、意味不明を黒板に並べていく教師、借り物にしか思えない価値観を撫でつけてくる親。来る日も、来る日も。
幸か不幸かとはまったくもってこのことでございまして、そんな毎日の中のある日、わたしはなぜか、まったくなぜかとか言いようがないあいまいな根拠で一枚のレコードと出会ってしまったのでございます。ザ・ドアーズの『まぼろしの世界/Strange Days』というレコードでございました。
思い返してみれば、ま、それが高校生というものなのでしょうけれど、とある音楽雑誌に紹介されていた、ただそれだけの理由でわたしがこのレコードを買った――このレコードと出会えたというのは、まったく奇跡といってもいいのかもしれません。なぜならわたしの当時の音楽趣味は完全にイーグルスやフリートウッド・マック、グランド・ファンク、ソロとなったビートルたち、カーペンターズ、エルトン・ジョン、ボストンあたりに集中していてストーンズさえまともには聞いてませんでしたし、このアルバムを紹介していた雑誌も雑誌です。普通ドアーズと言ったら「ハートに火をつけて」が入っているファーストを紹介するというのが人の道というものでしょう。なのにセカンド――『まぼろしの世界』。
正直、一聴しての感想は「あちゃー」でございました。暗すぎだ。金返せでございます。しかしそこは高校生、なけなしのこずかいで買った一枚のレコード、それはそれだけで宝物なのでございまして、鳴かぬなら鳴くまで待とうならぬ、気に入らぬなら気に入るまで聞こうストレンジ・デイズだったのでございます。
そしてその日は唐突に訪れました。一日一回を自らに義務づけてう~むと唸りながら聴き続けていたこのレコードの音が不思議なことに、すすーっと耳に、いえ、心に入ってきたのでございます。どろんとうねっていた音が体液に同化、ジム・モリソンとかいうどこか舌足らずでなのに獣じみた声の主のそれがやけに滑らかに優しく、そして何より、全体のメロディーの美しさが今まで気付かなかったのが嘘のように、わたしには聞こえるようになったのでございます。
そしてその歌詞を聞いてみれば、
People are strange when you are stranger.
きみがよそ者の時、人々は変。 (People are Strange)
わたしの、それは信じられる言葉でした。そしてそれを歌う声の優しいワイルドな声、センシティヴなドラミング、美しいキーボード、やたら勝手に指をくねらせるギタリスト、奈落の心地よさとでも言えそうな安らぎがそこにはあったのでした。安らぎはわたしを救いました。周囲と同じにできず、親の期待にもいまいち沿いきれない、教師に好きになれそうな人物を見つけられない、そんなわたしを、周囲と違ってても全然オッケー、親は親、自分は自分、教師は別に受験成功者製造ロボットでかまわない、そう思えるようにしてくれたからだ。
ジム・モリソンが死んで四年後の夏、わたしは初めて自分を肯定したのである。
それからドアーズのアルバムを、大学一年までの三年間でやっと買い揃えたはの言うまでもない。その中で『ストレンジ・デイズ』が一番音楽的に優れているアルバムとはちょっと言い難いということも知って、今では『LAウーマン』も「好きだ」というスタンスで聞くことができる。でも誰が何と言おうと何度言われようと、わたしにとってドアーズの最大の功績は『ストレンジ・デイズ』なのである。