三番バッターあたりたるべきお造りの登場を九回裏の代打まで待たねばならなかったのは至極残念ではあったが、とりあえずは期待通りの料理に満足し、夫婦は1号機エレベーターを使い、部屋へ戻った。やがて腹が落ち着くと、さてと、である。風呂風呂風呂風呂!温泉温泉温泉温泉!夜空を見上げての露天風呂!
食事後の風呂場、これが意外とすいてたりするので、我ら風呂にがっつく夫婦は必ずこのタイミングで夜の風呂をシメる(〆る、占める)。
よ~しよし、これで一日目のノルマはこなした、と風呂から出てマッサージ器のほうへ。そこで所在無げに体を揺らしている青年。昼間、「タダでできますから」と寝そべり型マッサージ器を俺に勧めてくれたマッサージ器営業のおにいちゃんである。俺の顔を見て再びすかさず薦めてくる。「やりますかぁ?」 やるやる。俺はやる。堕落の道を転げ落ちるのだ。
落ち始めると伴侶が風呂から上がってきた。「先に行ってるね」 うむ、それでよい。
昼間は俺がゴリゴリされているあいだ、この手のマッサージ器や医療用道具などについて伴侶と話していたおにいちゃんであった。なんとなく、その素直さ、純朴さが垣間見えていた。だからこうして気楽に再び横になれたのであり、そして何気に話しかけることもできた。
「何時までここにいるの」
俺はマッサージされている。が、おにいちゃんはマッサージ師ではない。マッサージ器の営業マンである。であるからして、ただ半端にしゃがみこんで俺のほうを見ている。
「10時までですねぇ」
昼間の伴侶との会話で青年は若林区から来ているということがわかっている。S温泉郷からは平均ほぼ1時間。
「じゃあ家について11時だぁ。で、朝は何時に来るの」
「10時には着いてますねぇ」
「じゃあ、なんだかんだ14時間は仕事だ。ひぇ~」
世の中のサラリーマンで一日14時間、毎日これをやっているなんてそれほど珍しいことじゃないだろうが、おれにとってはとりあえず、ひぇ~、だ。なんつっても一日おきに休んでるようなもんだから。
「自分の時間なんてねえなあ」
「ないっすねえ、寝るだけっすねえ」
「はぁーーーっ……」
何が、はぁーなのか自分でもよくわからなかったが、まあ温泉場ではありがちな感嘆詞であるということで納得する。
「いくつよ、歳」
「21っす」
「21!」
別に驚くようなことではないが、これもまた温泉場だからこそだ。
しかし「温泉場だからこそ」は客が浸ってもいい立場であって、労働中の人間はそのぬかったわだちにはまってはいけない。しかしこの労働中青年は人が敷いたわだちにしっかりはまってきた。
「もう辞めようと思ってるんすけどね」
う~む21だ、と堕落オヤジは腰にくるゴリゴリに顔を歪めながら思う。ありがちなセリフだ。俺なんかは口にしないうちに実行してしまうクチだったが。
「やめてどうすんの」
「動物訓練の資格持ってるんすよ。親に金出してもらって専門学校行って、一応ペットショップ就職したんすけど、辞めちゃってこれやってるんすけど、でもやっぱり違うなあとか思って……」
違うと思うんなら違うんだろう。
「そりゃ違うわなあ」
しかし専門学校を出たからと言って何ができるのか。
「その動物訓練の資格って、どんなことできんの」
「ペットの教育とか、盲導犬の訓練とか、あと、試験受けたら警察犬の訓練とかっすけど、2・3ヶ月かかってもそっち(動物方面)に戻ったほうがいいかなあって」
「そりゃその方がいいに決まってんなあ、そんなちゃんとした資格ならなあ。親もそのために金出したんだろうしなあ」
「そうっすよねえ」
「そりゃそうだぁ。ドーブツくんれんしたほうがいい!」
背中ゴリゴリされ喘ぎながら言い切っている俺。しかしそんな喘ぎ声に青年はまともに反応する。
「よかったっす、お父さんに話してみて。背中押してもらったっす」
お父さん?まあ確かに21の青年からしたらしっかり父親にあたる年齢ではある。が、なんかこうして初対面の若造クンに「お父さん」なんて言われてしまうと自分に娘がいるような妙な気分に陥ってしまう。
しかし、適当に温泉場的生返事をしていただけとは言え、いつの間にか青年を正しい道へ導いたのは確かなようで、なんかいい気分。
部屋へ戻ってこのことを伴侶に話したら、「あらあ、いいこと言ってやったんださあ」ときた。
うむうむ、さらにいい気分。
うまいもん食って、ゴリゴリでほにゃほにゃになって、なんだかいいことした気分になって、おんつぁんはとってもいい気分なのだ。
つづく。